この図はかの有名な、花瓶とも見え、互いに向かい合ったふたりの顔とも見える図である。
この図は二つの図形が描かれているわけではない。
そこにあるのは一つの図形である。
が、それがわれわれの目にどう映るかによって、二つの違った物が見えてくる。
そのうちの一つの事物における、部分の全体に対する関係は、他の事物における、部分の全体に対する関係と全く異なっている。
ふたりの顔に見える場合その一方を記述しようとすると、上から下へ、額、鼻、上唇、口、あご、それに首ということになる。
別なふうに見れば花瓶の縁にもなりうるはずの同一の線を記述したのだが、記述されたのは花瓶の縁ではなくて顔の輪郭である。(レイン)
同一人物であっても違った見方で見られると、そこから二つの全く違った記述が生み出され、その記述がこんどは二つの全く違った理論を生み出さし、そしてその理論が二つの全く違った一連の行動を結果する。
われわれが物を見る最初の仕方が、その後のそれの取り扱い方のすべてを決定するのである。(レイン)
ここから言えるのはある人の発言、物の見え方はその人の文脈の中で決まってくるということである。
いわばそれは図において鼻に見える部分を鼻と述べているがごとくである。
図を人の顔としてとらえる文脈の中で鼻に相当する部分は鼻である。
しかしそれは同時に花瓶の縁でもある。
図を花瓶としてとらえる文脈の中で鼻に相当する部分は花瓶の縁なのである。
A君がWといっている。B君はそれをZといっている。いわばA君の文脈の中で、今までの経験の中でそれはWなのである。しかしそれはB君の文脈の中ではZの意味を持っているのである。それはどちらも正しい。あの図を初めに顔と見て、鼻の部分を鼻と指摘するように、初めに花瓶と見て鼻の部分を花瓶の縁ととらえるように。
この考えはいわば自分が考えた考えは絶対に正しいという事にもなる。自分の文脈の中ではそれはZという意味を持つのだ。
それは正しい。ばっと。それは自分の文脈の中で、自分の人生の中だけで通用するのである。文脈が異なればWという意味にもなる。
あいつの言ってることは間違っている。否。間違ってはない。その人の文脈の中でそれは正しい。ばっと。違った文脈ってあるよね。そこでは違った意味を持つのだよ。という事である。
