被爆70周年に被爆の実相を感ずる … 広島平和記念資料館 | 私にとって人間的なもので無縁なものはない

被爆70周年に被爆の実相を感ずる … 広島平和記念資料館



この度、長崎旅行で立ち寄った広島。撮影した写真の一部ですが、広島平和記念資料館訪問記をおおくりします。

広島訪問はこれで6回目です。被爆70周年の年に訪問できたのはとても意義のあることです。学生時代に初めて広島に訪問して被爆の実相に触れたことが、その後の私の思想形成に極めて大きな影響を与えることになったのです。原爆許すまじ

広島原爆投下

https://youtu.be/7OCkNa41A6g

原子爆弾リトルボーイ(実物)
原子爆弾リトルボーイ(実物) wikimediaより

リトルボーイの構造。赤がウラン235。
リトルボーイの構造。赤がウラン235


広島駅から広島電鉄系統番号2番に乗車して約10分、原爆ドーム前停車場下車すると、目の前に原爆ドームが見えてきます。

原爆ドーム前電停と原爆の日にすれ違った被爆電車
広島電鉄「原爆ドーム前電停」と原爆の日にすれ違った被爆電車
 wikimediaより

2015年3月28日現在、原爆ドームでは原爆ドーム健全度調査が行われていました。

原爆ドーム慰霊碑
原爆ドーム慰霊碑

大正期の広島県商品陳列所
大正期の広島県商品陳列所 wikimediaより

1919年(大正8年)3月4日から物産陳列館で開催された「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」では、日本で初めてバウムクーヘンの製造販売が行われたそうです。
原爆爆発の後、原爆ドームには衝撃波を伴う秒速440メートル以上の爆風が襲ったとされています。なぜ、広島県産業奨励館(原爆ドーム)が吹き飛ばされなかったのか?その理由は
1、衝撃波を受けた方向がほぼ直上からであったこと。
2、窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜ける(ドーム内部の空気圧が外気より高くならない)条件が整ったこと。
3、ドーム部分だけは建物本体部分と異なり、屋根の構成材が銅板であったこと。銅は鉄に比べて融点が低いため、爆風到達前の熱線により屋根が融解し、爆風が通過しやすくなったこと。
ということだそうです。

原爆ドームと原爆ドーム銘石
原爆ドームと原爆ドーム銘石

相生橋銘石
相生橋銘石

相生橋
相生橋

被爆間もない相生橋
被爆間もない相生橋

原爆ヒロシマ 相生橋

https://youtu.be/tI5H2Wp69dg

相生橋から見る原爆ドーム
相生橋から見る原爆ドーム

平和の鐘
平和の鐘

毎年8月6日の広島平和記念式典で鳴らされる鐘ではありません。

原爆死没者慰霊碑
原爆死没者慰霊碑

原爆死没者慰霊碑石碑
原爆死没者慰霊碑石碑

「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」

以前設置されていた慰霊碑碑文の説明板
以前設置されていた慰霊碑碑文の説明板 wikimediaより

「碑文はすべての人びとが原爆犠牲者の冥福を祈り戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である。過去の悲しみに耐え憎しみを乗り越えて全人類の共存と繁栄を願い真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻まれている」


オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史
オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 1 二つの世界大戦と原爆投下

U.S. and Japanese apologies for war crimes could pave way for nuclear disarmament
(THE JAPAN TIMES)February 5, 2014
http://www.japantimes.co.jp/community/2014/02/05/voices/u-s-and-japanese-apologies-for-war-crimes-could-pave-way-for-nuclear-disarmament/#.UvRCMK
原爆投下は米国の戦争犯罪および日本の戦争責任の隠蔽に使われた


Atom bomb of Hiroshima

https://youtu.be/qmB1QcI57O8


広島平和記念資料館
広島平和記念資料館

広島平和記念資料館入場口
広島平和記念資料館入場口

昔は広島平和記念資料館本館から入場していました。この広島平和記念資料館本館は国指定の重要文化財なのだそうです。
今回は東館は現在改修工事のために閉館となっていました。

広島平和記念資料館入場券
広島平和記念資料館入場券

原爆キノコ雲
原爆キノコ雲写真

広島に投下された原爆巨大キノコ雲(米軍機撮影)
広島に投下された原爆によって巨大なキノコ雲が生じた(米軍機撮影)キノコ雲の下に見えるのは広島市街、その左奥は広島湾 wikipediaより

火傷と負傷にあえぐ被爆者

生死をさまよう_1

生死をさまよう

原子爆弾は、地上600メートルの上空で目もくらむ閃光を放ってさく裂れつし、爆心地から半径2キロメートルに及およぶ市街地の建物が跡形もなく壊わされ焼きつくされました。人が身につけていた衣服は、強烈な熱線によって焼け焦げました。ほとんどの人々は、血みどろになったポロポロの衣服を、わずかに身にまとい、瓦れきの街を逃げ惑どったのです。

生死をさまよう_2

被爆した少年

原子爆弾の炸裂_1

原子爆弾の炸裂

1945年(昭和20年)8月6日、原子爆弾がさく裂れつしたとき、広島にいた人たちを直接被爆者といい、その数は35万人前後と考えられています。この直接被爆者のなかには、数万人にのぼる朝鮮の人たちが含くまれていました。この人たちは日本国内の労働力の不足を補なうため、朝鮮から強制的に徴用され、軍需工場などで働いていた労働者とその家族の人たちなどです。
そのほか、中国・東南アジアからの留学生やアメリカ軍の捕虜などの外国人も含くまれていました。

原子爆弾の炸裂_2

遺品は語る

女学生の制服
女学生の制服

女学生の夏服とシュミーズ
女学生の夏服とシュミーズ

寄贈者:大下 定雄 氏
被爆場所:土橋付近
爆心地からの距離:800m
県立広島第一高等女学校1年生の大下靖子(おおしたのぶこ)さん(当時13歳歳)は、土橋地区の建物疎開作業に動員され、被爆しました。同級生と2人で己斐に避難して夕暮まで民家にいたのち、己斐国民学校に収容されていたのを発見され、大竹から入市した救援隊によって大竹の両親のもとに運ばれました。その時はまだ息があり、その日の様子を両親に語り、水を欲しがりましたが、その日の深夜、12時前に死亡しました。

弁当箱
弁当箱

寄贈者:折免 シゲコ 氏
被爆場所:中島新町(現在の中島町)
爆心地からの距離:600m
県立広島第二中学校1年生の折免滋(おりめんしげる)さん(当時13歳)は、中島新町の建物疎開作業現場で被爆しました。母親のシゲコさんは、破壊街を必死で捜索しましたが、なかなか発見できず、知人からの情報でようやく8月9日早朝、滋さんの遺体と、遺体に抱かかえられた真っ黒に焼けたお弁当箱と水筒を発見しました。滋さんは、出征中の父と兄に代わって、シゲコさんのために山や竹やぶを開墾して畑を作っていました。その日のお弁当の中身は、その畑から初めて収穫した作物でつくったおかずで、喜んで持っていったものでした。シゲコさんは、それを食べることなく死んでしまった滋さんが不憫でなりませんでした。

帽子・ゲートル・学生服
帽子・ゲートル・学生服

寄贈者:津田 蔵吉 氏
被爆場所:小網町(こあみちょう)
爆心地からの距離:900m
市立中学校1・2年生は、小網町の建物疎開作業現場で被爆し、多くの犠牲者を出しました。平和記念資料館では、亡なくなった3人の生徒が身につけていた衣服を一体にして展示しています。このうち、帽子は1年生の津田栄一(つだえいいち)さん(当時13歳)のものです。栄一さんは、7日に天満橋付近で死亡しているのを父親に発見され無言の帰宅きたくをしました。顔は赤くふくれ、何かの破片があたったのか喉と胸に大きな穴があいていました。

放射線測定のために採取された被爆の砂
放射線測定のために採取された被爆の砂

寄贈者:岡野眞治
大本営調査団の仁科芳雄(にしなよしお)博士の指示により広島市内で採取され、東京の理化学研究所に送られた被爆の砂です。8月10日、この中に入っていた銅線から初めて放射線が検出されました。

広島爆撃調査報告書の草案(複製)
広島爆撃調査報告書の草案(複製)

寄贈者:新妻清一
大本営調査団は、8月10日、陸海軍や京都帝国大学などの調査隊とともに、それぞれの資料をもち寄って会議を開き、広島に投下された新型爆弾が原爆であることを確認しました。
報告書には「判決」として「原子爆弾ナリト認ム」と公式に記されました

人影の石_1

人影の石

寄贈者:住友銀行広島支店
被爆場所:紙屋町(現在の紙屋町1丁目)
爆心地からの距離:260m
銀行の入口の階段に腰かけ、銀行の開店を待っていた人が、原爆炸裂の一瞬の閃光を正面から受け、大火傷を負い逃にげることもできないまま、その場で死亡したものと思われます。強烈な熱線により、まわりの石段の表面は白っぽく変化し、その人が腰かけていた部分が影のように黒くなって残りました。

人影の石_2


献花台(花崗岩)
献花台(花崗岩)

被爆場所:材木町(現在の中島町)
爆心地からの距離:400m
爆心地近くの伝福寺の観音像の前にあったもので、熱線を受けた面の石英はこまかくはがれて、白っぽくなりました。このような現象は、爆心地から約1キロメートル内の地域で見られました。

ガスタンクに残ったハンドルの影
ガスタンクに残ったハンドルの影


Flash burns and shadows at Hiroshima, nine months later

https://youtu.be/sHF5y-lI2jw


火傷した女学生
火傷した女学生

火傷して喘ぐ女学生

「体内から取り出されたガラス片」と「異型の爪」
「体内から取り出されたガラス片」と「異形の爪」

寄贈者:高橋 昭博 氏
被爆場所:中広町
爆心地からの距離:1,400m
市立中学校2年生の高橋さん(当時14歳)は、朝礼のため集まっていた校庭で被爆し、後頭部から背中、両手・両足に火傷を負い、皮ふが垂れ下がりました。右手人指し指のツメの根元にガラス片へんが突立ち、その後異形(いぎょう)の黒いツメが生えつづけています。

ガラス片が突き刺ったままの壁
ガラス片が突き刺ったままの壁

寄贈者:鈴木 盛久 氏
被爆場所:南段原町(現在の段原南)
爆心地からの距離:2,500m
比治山の南東の山すそに位置していた家の階段の2階へ上がる階段部分西側の壁です。爆心地側には比治山があり直接の爆風が届どかなかったにもかかわらず、巻こんで吹いてきた強烈な爆風のために割れた窓ガラス片が飛び散り、突き刺さりました。

倒れた家の下敷きになった人々
倒れた家の下敷きになった人々

火の海となった爆心地付近
倒れた家に閉込められ、炎に巻れて助けを求める母と子

赤ちゃんを抱き、走る姿のまま焼死した母
「赤ちゃんを抱き、走る姿のまま焼死した母」
「火災に包まれ、赤々と夜の闇に浮かぶ広島の街」

棒が目の辺りに突き立ったままの真っ黒にな女性
杭のような棒が目の辺りに突き立ったままの真っ黒になった女性


溶けたガラス小瓶のかたまり
溶けたガラス小瓶のかたまり

寄贈者:藤塚 実 氏
被爆場所:的場町
爆心地からの距離:1800 m
藤塚さんの家は全壊・全焼し、外で被爆した忠くん(当時4歳)は全身に火傷を負い、翌日亡くなりました。9月に復員した実さん(当時19歳)は弟の死と変わり果てた広島のありさまにぼう然となりました。その後、自宅前にあったインク工場跡からガラス小瓶が掘出されました。小瓶は、火災の熱で溶けてくっつき、かたまりになっていました。これを見た実さんは「熱かったじゃろうなぁ」とつぶやきました。

白壁に残った黒い雨の痕
白壁に残った黒い雨の痕

寄贈者:八島 秋次郎 氏
被爆場所:古田町高須(ふるたまちたかす)
爆心地からの距離:3,700m
原爆が投下されたとき、寄贈者の八島秋次郎さん(当時36歳)は自宅で朝食をとっていました。爆風で自宅の屋根がずれ、屋根と壁の間にすきまができ、そのすきまからドロドロとした黒い雨がふりこみ、その跡あとが壁かべにくっきりと残りました。この黒い雨は、爆発後、市街地が大火災になるとともに、強烈な火事あらしや竜巻が起こり、爆発の20~30分後ころから市域の北西部地域に降ふったものです。この雨には爆発による誘導放射能を受けたすすやほこりなどの放射性降下物が多量に含くまれていたため、遠隔地にまで放射線の影響が及ました。
( 幅:970 mm×高さ:800 mm)

抜けた頭髪
「抜けた頭髪」
寄贈者:山下(旧姓 吉田)博子 氏
被爆場所:大手町7丁目(現在の3丁目)
爆心地からの距離:800m
博子さん(当時18歳)は、被爆から15日後、母親が髪をすくと3回櫛を入れただけで、はえぎわの一筋を残してすべての髪の毛がすっぽりと抜けてしまいました。

「出血斑のある舌(複製)」
提供者:広島大学原爆放射能医学研究所
爆心地からの距離:1,000m
22歳の兵士は、屋内で被爆し、背中と頭に負傷しました。8月20日に脱毛し、全身に点状出血が出ました。9月1日から歯茎がはれ、3日には口内炎になり、のどもはれて高熱が続き、8日午前9時20分に死亡しました。この標本の舌の中央部の黒い点は出血斑です 。

ケロイドと急性白血病となった骨髄
「ケロイド」と「急性白血病となった骨髄」

提供者:広島赤十字・原爆病院
被爆場所:平塚町
爆心地からの距離:1,700m
9歳の少女は木造家屋の中で被爆しましたが外傷や火傷もなく、元気に成長しました。被爆から約14年後の1959(昭和34)年6月、突然、倦怠感、めまい、歯茎からの出血などが続くようになり入院しました。翌年6月下旬から足のはれが引かず、やがて出血するようになり、7月下旬に亡なくなりました。


白血病の少女の死——佐々木禎子さん

白血病の少女の死 佐々木禎子(さだこ)さん

佐々木禎子さん(当時12歳)は、2歳の時に被爆しましたが外傷もなく、その後元気に成長しました。しかし、10年後の小学校6年生の秋に突然白血病を発症し、翌年2月に入院しました。回復を願ねがって包紙などで鶴を折り続づけましたが、8か月の闘病生活の後、亡なくなりました。禎子さだこさんの死をきっかけに、原爆で亡くなった子どもたちの霊を慰さめ平和を築くための像を作ろうという運動が始まり、全国からの募金で平和記念公園内に「原爆の子の像」が完成しました。その後この話は世界に広がり、今も「原爆の子の像」には多くの折り鶴が寄せられています。

きんちゃくとぞうりとこけし
きんちゃくとぞうりとこけし

佐々木繁夫氏・雅弘氏寄贈
禎子さんが長くても一年の命と聞かされた両親は、禎子さんを喜ばせようと、絹の反物を買って手縫いで晴れ着を作りました。禎子さんは生まれて初めての晴れ着に感激しました。きんちゃくとぞうりは晴れ着にあわせて買ったものです。禎子さんは、病院でもぞうりを愛用していました。

柩に眠る禎子さん
柩に眠る禎子さん


袋町国民学校の壁に書かれた伝言
袋町国民学校の壁に書かれた伝言

爆心地から460m 袋町
1945(昭和20)年10月
袋町国民学校の火災でまっ黒になった壁に、教師や生徒の消息がチョークで走り書きされています。市内のあちらこちらには、家族の生死や生き残った被爆者の消息を知らせる伝言が見られました。肉親や知人の消息をたずねる人びとは、こうした伝言を探さがし求めて、救護所などをたずね歩きました。


広島平和記念資料館から原爆死没者慰霊碑を見る
広島平和記念資料館から原爆死没者慰霊碑を見る


原爆の子の像_1
原爆の子の像

原爆の子の像_2
原爆の子の像_2

佐々木禎子の像
佐々木禎子の像

つるにのって-とも子の冒険-

https://youtu.be/TvWC4QFQ8Eo

原爆の子の像と折鶴
原爆の子の像と折鶴


元安橋から見た原爆ドーム
元安橋から見た原爆ドーム


動員学徒慰霊塔
動員学徒慰霊塔
動員学徒慰霊塔について
慟哭の証言
http://www.douingakuto.com/db/_SWF_Window.html


原爆投下前の広島市中央部
原爆投下前の広島市中央部

同心円の中心が爆心地。すぐ左上に目標の相生橋。画面右上の矩形は広島城

広島原爆の爆心地
広島原爆の爆心地 wikimediaより

原爆投下後の広島市中央部
原爆投下後の広島市中央部


Nuclear Explosion One Millisecond After Detonation
http://www.buzzfeed.com/donnad/nuclear-explosion-one-millisecond-after-detonation#.atEzr54gj
核爆発 1/100,000,000秒後
Nuclear Explosion OneMillisecond After Detonati


はだしのゲン

https://youtu.be/0gZd-0QMeWQ


原爆投下・10秒の衝撃

https://youtu.be/UkllhZ1aF5U



原発震災発生・講演会 2011年7月3日(日)
福島原発震災から原子力の終焉に向けて
京都大学・原子炉実験所 小出 裕章
http://labor-manabiya.news.coocan.jp/shiryoushitsu/koide_kouen_iken/koide_hiroshima_20110703.pdf
より
福島原発震災から原子力の終焉に向けて


原爆を許すまじ

https://youtu.be/zq9pXGShrHk