原爆使用は戦争犯罪ではないのか?!( ̄^ ̄)凸 - ハーグ陸戦条約 | 私にとって人間的なもので無縁なものはない

原爆使用は戦争犯罪ではないのか?!( ̄^ ̄)凸 - ハーグ陸戦条約



原爆を許すまじ

http://youtu.be/zq9pXGShrHk
作詩 浅田石二 作曲 木下航二
合唱 アンサンブル・ヴェルソー アコーディオン:水野弘文



私も広島に行きました。
広島の訪問が、
私の平和への願いの原点です。(・ω・)ゞ




 一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人に捧ぐ。

原爆詩集



ちちをかえせ ははをかえせ

としよりをかえせ

こどもをかえせ

 
わたしをかえせ わたしにつながる

にんげんをかえせ


にんげんの にんげんのよのあるかぎり

くずれぬへいわをへいわをかえせ



あとがき

 私は一九四五年の八月六日の朝、爆心地より三千米あまり離れた町の自宅から、市の中心部に向って外出する直前原爆を受け、硝子の破片創と数ヶ月の原爆症だけで生き残ったのであるが、その時広島市の中心より約二千米半径以内にいた者は、屋内では衝撃死又は生埋めにされたまま焼死し、街路では消滅、焦死あるいは火傷して逃れたまま一週間ぐらいの間に死に、その周辺にいた者は火傷及び原爆症によって数ヶ月以内に死亡、更にそれより遠距離にいた者が辛うじて生き残り、市をとり巻く町村の各家庭では家族の誰かを家屋疎開の後片づけに隣組から出向かせていたため骨も帰らぬこととなった。またその数日前ある都市の空襲の際撒かれたビラによるという、五日の夜広島が焼き払われるという噂や、中学校、女学校下級生たちの疎開作業への動員がこの惨事を更に悲痛なものとさせたのである。

 今はすべての人が広島で二十万ほどの人間が一発の原子爆弾によって殺されたことを知っている。長崎でもそうだ。然しそれは概括的な事実のみであってその出来事が大きければ大きいだけに、直面すれば何人でも慟哭してもしきれぬであろうこの実感を受けとることは出来ない。当時その渦中にあった私でさえこの惨事の全貌を体で知ることは出来なかったし、今ではともすれば回想のかたちでしか思いえぬ時間の距りと社会的環境の変転をもった。

 だがこの回想は嘆きと諦めの色彩を帯びながらも、浮動してゆく生活のあけくれ、残された者たちの肩につみ重ねられてゆく重荷の中で常に新しい涙を加え、血のしたたりを増してゆく性質をもち、また原爆の極度に残虐な経験による恐怖と、それによって全く改変された戦争の意味するものに対する不安と洞察によって、涸れた涙が、凝りついた血が、ごつごつと肌の裏側につき当るような特殊な底深さをもつものとなっている。

 今年もやがてなくなった人たちの八周忌が近づく。広島では多くの家庭が、一度に応じきれぬ寺院の都合を思い、繰り上げたり繰り延したりしていとなむ法事をそろそろひらきはじめる頃であるが、その座に坐った人たちの閉された心の底にどのような疼きが鬱積しつつあるかということを果して誰が知り得るであろうか。それはすでに決して語られることのないことば、決して流されることのない涙となっているゆえに一層深く心の底に埋没しながら、展開する歴史の中で、意識すると否とに拘らずいまや新しいかたちをとりつつあり、この出来事の意味は人類の善意の上に理性的な激しい拡大性をもって徐々に深大な力を加えつつあるのである。

 私はこの稿をまとめてみながら、この事に対する詩をつくる者としての六年間の怠慢と、この詩集があまりに貧しく、この出来事の実感を伝えこの事実の実体をすべての人の胸に打ちひろげて歴史の進展における各個人の、民族の、祖国の、人類の、過去から未来への単なる記憶でない意味と重量をもたせることに役立つべくあまりに力よわいことを恥じた。

 然しこれは私の、いや広島の私たちから全世界の人々、人々の中にどんな場合にでもひそやかにまばたいている生得の瞳への、人間としてふとしたとき自他への思いやりとしてさしのべざるを得ぬ優しい手の中へのせい一ぱいの贈り物である。どうかこの心を受け取って頂きたい。

 尚つけ加えておきたいことは、私が唯このように平和へのねがいを詩にうたっているというだけの事で、いかに人間としての基本的な自由をまで奪われねばならぬ如く時代が逆行しつつあるかということである。私はこのような文学活動によって生活の機会を殆んど無くされている事は勿論、有形無形の圧迫を絶えず加えられており、それはますます増大しつつある状態である。この事は日本の政治的現状が、いかに人民の意志を無視して再び戦争へと曳きずられつつあるかということの何よりの証明にほかならない。

 又私はいっておきたい。こうした私に対する圧迫を推進しつつある人々は全く人間そのものに敵対する行動をとっているものだということを。

 この詩集はすべての人間を愛する人たちへの贈り物であると共に、そうした人々への警告の書でもある。

  一九五二年五月一〇日
峠三吉





広島・長崎の原爆―アメリカ製作フィルム 1/2

http://youtu.be/hMRILEOmjr4
極東国際軍事裁判で、原爆の使用については触れられることがなかった。

紹介されているフィルムは、アメリカ人監督の製作によるもの。 戦後20年間、一般公開が禁止であった。
原爆投下後の被災地の状況などが収められている。

1945年7月16日、世界初の核実験がアメリカ・ニューメキシコ州の砂漠で行われた­。
最初の実験をしたときメンバーの一人が言った言葉
 「これで俺達はくそったれだ」
最初の実験跡地は史跡とされており、米では毎年その記念日を祝っており、核実験史跡ツ­アーもあるそうです。

日と米の核や戦争に対する認識は全く違い、米では核や戦争は悪いものとは教えられない­のだろう。いつまでも戦史を誇っていなければいけないのである。戦争と軍事で持ってい­る戦争大国なのだから。あわれ。
米が日米の戦争を作ったことは教えられず、「真珠湾を忘れるな」の合言葉と「原爆は第­二次世界大戦を終結させた」、という正当化洗脳教育をされているようだ。
アメリカは攻撃と勝利の戦争しか知らない。そしてなぜかいつも他国を穢して戦争をする­。

The Hiroshima Bombing

http://youtu.be/bKFsZ-2Z21c



2013/08/04 【兵庫】「被爆の実相」~ヒロシマを今、私自身のことばで~ 竹本成德氏講演
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/94697
 2013年8月4日(日)14時、神戸市東灘区の東灘区民センターにおいて、「『被爆の実相』~ヒロシマを今、私自身のことばで~」と題する講演会が開かれた。講師(語りべ)を務めた竹本成德氏(コープこうべ元理事長・日本生協連元会長)は、14歳のときに広島市内で被爆した実体験をもとに、原爆投下後の阿鼻叫喚(あびきょうかん)の実相(真実)を語り、二度と戦争の惨劇を繰り返してはならないという思いを聴講者に訴えた。

■内容
 講演 竹本成德氏(兵庫県ユニセフ協会会長、元コープこうべ理事長、元日本生協連会長)

■主催 史跡・戦跡めぐりの会/九条の会.ひがしなだ詳細

http://www.ustream.tv/recorded/36822263
$私にとって人間的なもので無縁なものはない


広島 原子爆弾の記憶 竹本成徳兵庫ユニセフ会長 アンシー

http://youtu.be/6nn4XT6Jf_U


医師・肥田舜太郎さん ヒロシマ・フクシマを語る 2012.2.21(再掲)

http://youtu.be/xXoIfL6C0sM



$私にとって人間的なもので無縁なものはない
原爆の子の像

( さだこ ) さんが生きた4675日 - 広島平和記念資料館
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0107/exh01071.html
一人の被爆少女の死-佐々木禎子12歳


特定非営利活動法人 SADAKO LEGACY
http://www.sadako-jp.com/

$私にとって人間的なもので無縁なものはない



みなさんは、広島平和記念公園にある
「原爆の子の像」のモデルになった少女、
「佐々木禎子(ササキ サダコ)」を知っていますか。

彼女はわずか2才で被爆し、12才でその命を終えました。

しかし、そのわずか12年の彼女の人生には我々が忘れてはならない、人に対する想いやりの気持ち、明るく前向きに生きることの大切さなど、世界中の子供たちに、伝え広めていきたいエピソードがたくさんあります。

我々SADAKO LEGACYは、佐々木サダコの生涯を伝え、想いやりのこころを未来に語り継ぐ団体です。


佐々木禎子の物語(クミコの"INORI~祈り~"Sadako Story)

http://youtu.be/a-PTFkfumvY
英語版
http://youtu.be/fPlAzO0mGT4
平成22年の紅白歌合戦でクミコが歌った「INORI~祈り~」。
この動画は、その歌で歌われている少女、"原爆の子の像"のモデルとなった佐々木禎子­の物語です。

佐々木サダコについて(公式紹介文)
http://www.sadakolegacy.jp/sadakopro.html


クミコ / INORI~祈り~



(´;ω;`)



米「投下に正当性」は「うそ」 O・ストーン監督が来訪
(東京新聞)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013080602000105.html
$私にとって人間的なもので無縁なものはない アカデミー賞の受賞作品「プラトーン」などで知られ、米国の軍事展開を批判する米映画監督のオリバー・ストーン氏(66)が、広島の原爆の日などに合わせて来日している。十五日まで長崎、沖縄を回り、原爆や米軍基地問題について人々と対話する予定だ。原爆投下を「正当性がない」と指摘、「歴史を正しく記憶することが大切」と訴えている。
 「米国は日本がソ連に侵略されることを恐れていた。だから日本が降伏したがっているのを知りながら原爆を落とした」。広島市で市民団体のシンポジウムなどに参加したストーン氏は強調する。
 昨年、歴史学者でアメリカン大准教授のピーター・カズニック氏とテレビドキュメンタリー「もうひとつのアメリカ史」を制作、同名の本を出版した(日本語版は早川書房「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史」)。公文書をひもとき、戦時中から今のオバマ政権まで続く覇権主義に疑問を投げかける内容だ。
 すべての元凶とみるのが日本への原爆投下。戦争を早く終わらせ、多大な犠牲を防ぐのに必要だったという米国の正当化理論に対し、ストーン氏は「私も長年、投下は正しかったと信じていたが、それは神話、うそだと分かった。今も子どもたちはうそを教えられている」と指摘する。
 さらに、米軍が沖縄をはじめ各国に軍事基地を展開していることを「非常に危ない」と懸念、「だから広島は象徴でなければならない」と訴える。
 安倍政権は「日米同盟強化」を理由に集団的自衛権の行使に布石を打ち、その先には改憲の議論が待ち構える。ストーン氏は日本の右傾化を「世界にとって危険なこと」とみる。カズニック准教授も「憲法九条は日本にとって要。安倍政権が変えようとしていることは問題で、悲惨な結果を招くだろう」と強調した。

必見!
オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史(1)

オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ... 投稿者 tvpickup

オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史(2)

オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ... 投稿者 tvpickup

オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史(3)

オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ... 投稿者 tvpickup



ハーグ陸戦条約

第23条:特別の条約により規定された禁止事項のほか、特に禁止するものは以下の通り。
1. 毒、または毒を施した兵器の使用。
2. 敵の国民、または軍に属する者を裏切って殺傷すること。
3. 兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷すること。
4. 助命しないことを宣言すること。
5. 不必要な苦痛を与える兵器、投射物、その他の物質を使用すること。
6. 軍使旗、国旗その他の軍用の標章、敵の制服またはジュネーヴ条約の特殊徽章を濫りに使用すること。
7. 戦争の必要上、やむを得ない場合を除く敵財産の破壊または押収。
8. 相手当事国国民の権利及び訴権の消滅、停止または裁判上不受理を宣言すること。

第25条:防守されていない都市、集落、住宅または建物は、いかなる手段によってもこれを攻撃または砲撃することはできない。

第27条:攻囲及び砲撃を行うにあたっては、宗教、技芸、学術、慈善の用途に使用されている建物、歴史上の記念建造物、病院、傷病者の収容所は、同時に軍事目的に使用されていない限り、これに対しなるべく損害を与えない為の必要な一切の手段を取らなければならないものとする。攻囲された側は識別し易い徽章をもって建物または収容所を表示する義務を負う。前述の徽章は予めこれを攻囲者に通告すること。


ラダ・ビノード・パール

東京裁判における主張
ホロコーストと原爆投下に関して
連合国側はニュルンベルク裁判と東京裁判との統一性を求めていたが、パール判事は、日本軍による残虐な行為の事例が「ヨーロッパ枢軸の重大な戦争犯罪人の裁判において、証拠によりて立証されたと判決されたところのそれとは、まったく異なった立脚点に立っている[20]」と、戦争犯罪人がそれぞれの司令を下したとニュルンベルク裁判で認定されたナチス・ドイツの事例との重要な違いを指摘したうえで、「(米国の)原爆使用を決定した政策こそがホロコーストに唯一比例する行為」と論じ、米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一のものであるとした。

講演「世界に告ぐ」
パールは1952年11月3日より4日間、「世界連邦アジア会議」の講演のため広島市を訪問した。4日の講演「世界に告ぐ」では「広島、長崎に原爆が投ぜられたとき、どのようないいわけがされたか、何のために投ぜられなければならなかったか」など、原爆投下を強く非難した。
講演では、「いったいあの場合、アメリカは原子爆弾を投ずべき何の理由があっただろうか。日本はすでに降伏すべき用意ができておった」「これを投下したところの国(アメリカ)から、真実味のある、心からの懺悔の言葉をいまだに聞いたことがない」、連合国側の「幾千人かの白人の軍隊を犠牲にしないため」という言い分に対しては「その代償として、罪のないところの老人や、子供や、婦人を、あるいは一般の平和的生活をいとなむ市民を、幾万人、幾十万人、殺してもいいというのだろうか」「われわれはこうした手合と、ふたたび人道や平和について語り合いたくはない」として、極めて強く原爆投下を批判した。

原爆慰霊碑碑文についての発言と碑文論争[編集]
5日には広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑の碑文にある「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」を通訳を通して読んだ後、日本人が日本人に謝っていると判断し「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」との主旨の発言をおこなった。
パールは二度三度と碑文の内容を確かめた後「憤ろしい不審の色」を浮かべて

ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落したものは日本人でないことは明瞭である。落としたものの責任の所在を明かにして、"わたくしはふたたびこの過ちは犯さぬ"というのなら肯ける。しかし、この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は、西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。」「ただし、過ちをくり返さぬということが、将来再軍備はしない、戦争は放棄したという誓いであるならば、非常にりっぱな決意である。それなら賛成だ。しかし、それならばなぜそのようにはっきりした表現をもちいないのか」「原爆を投下した者と、投下された者との区別さえもできないような、この碑文が示すような不明瞭な表現のなかには、民族の再起もなければまた犠牲者の霊もなぐさめられない」



【東京原爆裁判】(被団協)
http://www.ne.jp/asahi/hidankyo/nihon/rn_page/menu_page/side_menu_page/saiban_sosyou/tokyosaiban.htm
 1955年(昭和30年)4月、広島の下田隆一さんら3人が、国を相手に東京地裁に損害賠償とアメリカの原爆投下を国際法違反とすることを求めて訴訟を提起した。被爆者に対して国が何らの援護も行わずに放置していた時期のことである。
 東京地裁は、1963年(昭和38年)12月判決を言い渡した。
 判決は、原告の損害賠償請求を棄却したが、「アメリカ軍による広島・長崎への原爆投下は国際法に違反する」とし、「被爆者は損害賠償請求権を持たない」が、「国家は自らの権限と責任において開始した戦争により、多くの人々を死に導き、障害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。しかもその被害の甚大なことは、とうてい一般戦災者の比ではない。被告がこれに鑑み十分な救済策を執るべきことは、多言を要しないであろう。それは立法府及び内閣の責務である。本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられない」と述べている。
 裁判は、「原爆投下は国際法違反」といわせたことをよしとして、1審で確定した。この裁判は、その後、被爆者援護施策や原水爆禁止運動が前進するための大きな役割を担った。訴訟提起後の1957年原爆医療法が制定され、裁判中の世論の高まりもあり、1968年5月には原爆特別措置法が施行された。



広島の神話 責任を負わない戦争犯罪とアメリカ軍の歴史の嘘
(マスコミに載らない海外記事)
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-25d4.html
医学博士ゲーリー・G・コールズ

Global Research
2013年7月31日

広島

来る2013年8月6日、火曜日は広島爆撃68周年だ、戦争に疲弊したアメリカ人が、10日後に戦勝を祝って以来ずっと、その全ての真実は、厳しく検閲され、神話化されてきた。

創造性のない/退屈な歴史の先生方(大半、スポーツだけは得意な連中に思えた)に教えられたつまらない歴史の授業、戦時に、イギリスとアメリカ軍がしたこと全て高潔で献身的で、敵がするあらゆることは残忍だという愛国的で、しっかり検閲された教科書のおかげだった。26人の同級生全員が、アメリカ歴史教科書の戦後プロパガンダを鵜呑みにした。我々が対日戦争“名誉の”終結を学んだのはこうした教科書からだ。

もちろん、今の私は、ダグラス・マッカーサー将軍を先頭に、戦争を正当化する軍国主義者連中(そして雑多な愛国心過剰の歴史家達)が練り上げた、偽りの情報を与えられていたことを知っている。マッカーサーは、原爆爆発の真下の地面で実際一体何が起きたのかについて、見事に完全な検閲を課した。日本総督の地位についた後、彼の最初の行動の一つは、広島と長崎の原爆の恐ろしさを記録する全ての写真証拠没収し、および/または、破壊することだった。

かつて1995年、スミソニアン博物館は、原爆投下に関する率直で、歴史的に正確な展示を見せることで、約50年間の似非愛国神話を修正する準備をしていた。(スミソニアン博物館に対する連邦の財政援助を止めると脅したニュート・ギングリッチの共和党が支配する議会を含め)右翼の退役軍人団体や、他の愛国団体から発せられる猛烈な、組織化された、反動的な激しい怒りを受けて、スミソニアンは、文脈上重要だが、不快な部分を全て削除することを強いられた。かくして、またもや我々は、国家指導者に対する、一般的アメリカ人の信頼を揺るがせる可能性がある“愛国的でない”歴史的真実が暴露されるのを恐れたがゆえに、政治的動機に基づく団体が、本当の歴史を大きく書き換えるというもう一つの例を得ることになった。何千人もの無辜の人々が亡くなった、2001/9/11のワールド・トレード・センター・ビル三棟の制御解体や、アフガニスタンの無辜の国民に対して、戦端が開かれたことに対する、ある種ほぼ完全なマスコミ報道管制のようなものだ。(これを主張する文書は以下を検索されたい。 www.ae911truth.org)

$私にとって人間的なもので無縁なものはない
1945年8月9日の長崎

もちろん、スミソニアンの歴史家達は頭に銃を突きつけられていたのだが、大混乱の中で、大企業が支配する大手マスコミも、それゆえ一般大衆も、重要な歴史的観点を学び損ねた。それは、こういうことだ。戦争は、夏の原子爆弾無しに、1945年春に終わっていた可能性があり、それゆえ沖縄での何千人ものアメリカ海兵隊員や兵士達の大量戦死者もなかった可能性がある。国際戦争犯罪と、人類に対する犯罪の定義に合致する、無防備の民間人に対する原子爆弾投下を正当化した、それに続いた宣伝攻勢の根拠である、アメリカの日本本土侵攻も必要性など無かったのだ。

アメリカ諜報機関は、トルーマン大統領政権もそれを全て把握していたのだが、トルーマンが、広島を焼却するという運命的な命令を下す何ヶ月も前に、日本が名誉ある降伏の方法を必死に探し求めていたことを知っていた。

1980年代に明らかにされた諜報データは、アメリカの大規上陸という緊急対応策(1945年11月1日より後の時期に予定されていた)が不要だったことを示している。日本は、1945年4月という早い時期から、駐モスクワ日本大使経由で和平交渉工作をしていた。アメリカは、日本の暗号を何年も前から解読しており、日本の全ての軍・外交メッセージは傍受されていたので、トルーマンは、こうした進展を承知していた。1945年7月13日、東郷外務大臣はこう述べていた。“無条件降伏(あらゆる主権の放棄、特に天皇退位)が唯一の和平への障害である。”

トルーマンと顧問連中は、こうした取り組みを知っており、日本では神と見なされていた天皇裕仁に、戦後、単純に、名目上の首長の地位を認めるだけで、戦争は外交によって終わらせられたはずなのだ。この妥当な譲歩は、見たところ、不合理にも、 ルーズベルトとチャーチルとの1943年のカサブランカ会談で最初に要求され、トルーマン、チャーチルとスターリン三人のポツダム会談でも繰り返された、無条件降伏の為の要求の中で、アメリカに拒否された。それでも、日本は交渉による名誉ある平和を求め続けていた。

ヘンリー・スティチムソン陸軍長官はこう述べている。“本当の疑問は、原爆を使用せずとも降伏が実現できたか否かではなく、別の外交的・軍事的な進路が、より早期の降伏をもたらしたろうか、否かだ。日本閣僚の大半は、1945年春に、最終的に合意したものと実質的に同じ条件を受け入れる用意があった。”言い換えれば、スティチムソンは、アメリカは不必要に戦争を長引かせたと感じていたのだ。

日本が降伏した後、マッカーサーは、屈辱的な“無条件降伏”の条件受け入れを拒否させるよう日本指導部に強要したまさにその条件、日本の精神的な象徴として、天皇の在位を認めたのだ。

そこで下記が、舞台裏で起きていたこと理解する為に、解答が必要な重要な二つの疑問だ。

一体なぜアメリカは、日本の降伏(天皇の維持)に関する、日本の唯一の要求を受け入れることを拒否したのか
そして
太平洋における勝利は既に確実だったのに、一体なぜ原子爆弾が使用されたのか?
第二次世界大戦後直ぐに、軍事アナリストのハンソン・ボールドウィンは書いている。

“ポツダム宣言(日本の無条件降伏を主張する)が出された1945年7月26日頃には、日本は、軍事的な意味で、戦略的に絶望的な立場にあった。”

トルーマン大統領の最高軍事顧問ウイリアム・リーヒー海軍大将は、その戦争回顧録、「I Was There」(私はそこにいた)でこう書いている。

“この残忍な兵器を広島と長崎で使用することは、対日戦争における物質的支援にならないというのが私の意見だった。効果的な海上封鎖と、通常兵器による爆撃の成功のおかげで、日本は既に敗北し、降伏する構えだった。私自身の感覚は、最初の使用者となることにより、暗黒時代の野蛮人と共通の倫理規範を採用してしまったとというものだ”

ドワイト・D・アイゼンハワー将軍も、爆撃の数週間前の個人的なトルーマン大統領訪問で、原子爆弾は使わぬよう勧めていた。アイゼンハワーはこう語っている。(1963年のニューズウイーク・インタビュー):

“連中をあの恐ろしいもので攻撃する必要はなかった... [交渉]しようともせずに、民間人を殺害し、おびえさせる為、原子爆弾を使用するのは二重の犯罪だ。”

原爆を使用するというトルーマン政権の決断に貢献した多数の要素があった。

1) アメリカは、三発の爆弾製造に、膨大な時間と人力と資金(1940年のドル価格で20億という途方もない額)を投入しており、勢いを止めようという気持ちも根性も皆無だった。

2) アメリカの軍・政治指導部は、多数の一般のアメリカ人同様、真珠湾のおかげで、復讐の意欲に燃えていた。アメリカ軍と、戦争に疲れた国民の頭の中に、慈悲は存在せず、対広島・長崎作戦は、出来事の、好ましくない部分が削除された、国家安全保障版の説明しか知らない人々の大半によって、何の疑問も出されること無しに容認された。

3) 広島原爆の核分裂物質はウランだった。長崎原爆はプルトニウム爆弾だった。科学的好奇心は、計画を完了まで押し進めた極めて大きな要素だった。マンハッタン計画の科学者達(そして、アメリカ陸軍の計画指揮者レズリー・グローヴス将軍)は“もし都市が丸ごと一発のウラン爆弾で破壊されたら一体何がおきるだろうか?”“プルトニウム爆弾ではどうだろう?”ということに好奇心を持っていた。

二発の原爆を使用するという判断は1945年8月よりずっと前になされていた。科学実験を推進するためには、日本の降伏を受け入れるという選択肢はありえなかった。もちろん、もし広島への原爆投下が即時降伏を強制することを狙ったものだったのであれば、三日という二発の爆弾の間隔は良心のかけらもないほど短い。日本の通信・運輸能力は壊滅状態にあり、誰も、アメリカ軍すら、まして日本最高司令部は、広島で起きたこと十分理解できていなかった。(マンハッタン計画は余りに極秘だった為、太平洋戦域全体の司令官ダグラス・マッカーサーでさえ、広島の5日前まで、蚊帳の外に置かれていた。)

4) ロシア人はV-E Day(ヨーロッパ戦勝記念日、5月8日)の90日後に日本との戦争に突入する意図を表明しており、それは広島が爆撃された二日後の8月8日にあたる。実際、ロシアは8月8日に日本に戦争を宣告し、長崎が焼かれて灰と化した時には、満州を東に向かって進撃していた。アメリカは日本がロシアに降伏したり、戦利品を分け合ったりするのがいやだったのだ。

ロシアは、間もなく唯一のもう一つの超大国、そして将来の敵になるところだったので、冷戦最初の核戦争の脅威“メッセージ”が送られたのだ。ロシアは実際、期待していたものよりはるかに僅かな戦利品しか得られず、二超大国は、まかないきれない核軍拡競争と、人類絶滅の可能性をもたらす、冷戦という膠着状態に即座に陥ってしまった 。そこで起きたのは、数世代の軍事的狂気を経た、両国の道徳的・財政的破綻だった。

広島爆撃では、推計80,000人の無辜の民間人と、20,000人の武器を持たない若い日本人徴集兵が即死した。更に何十万人もが、短くされた余命の間、極めてつらい火傷、放射能による病、白血病、貧血症や治療不能の感染症による緩慢な死に苦しめられた。生き残った人々の何世代もの子孫までもが、放射能で引き起こされる恐ろしい病気、癌や早死に苦しめられる状態が、まさにこの瞬間も続いている。

隠蔽されてきた、もう一つの恥ずべき現実は、その存在をアメリカ軍司令部が十分承知していた12人のアメリカ人パイロット達が、運命の日に、広島刑務所内で、瞬時に焼き殺された事実だ。

そこで陸軍省公認の太平洋戦争終結説明には、アメリカ人が、アメリカ大企業、軍、政治、マスコミのオピニオンリーダーによって絶えず吹き込まれている長たらしい神話の中に、しっかり位置を占めた新たな一連の神話が含まれており、その過程で、戦争の身の毛もよだつ恐ろしさは、讃美へと置き換えられた。北朝鮮、イラン、ベトナム、ラオス、カンボジア、レバノン、グラナダ、パナマ、フィリピン、チリ、エルサルバドル、ニカラグア、グアテマラ、ホンジュラス、ハイチ、コロンビア、クウェート、イラク、アフガニスタン、等々の国々でのアメリカ軍侵略と占領で、実際に何が起きたのかということも、検閲で削除されてしまった他の実相だ。このリストにはcoverそれ以外の国々での、無数の秘密のペンタゴン/CIA隠密作戦や、暗殺計画、150もの国々にアメリカ軍基地(基地を承認すれば、たっぷり賄賂が支払われ、さもなくば、経済制裁で脅された)。

しかし、どういうわけか、私達の多くは、依然“正しかろうが、間違っていようが、我が祖国”という、あやふやな愛国心にしがみついて、戦争で金儲けをする超億万長者の大企業エリート連中(そして連中お雇いの政治家、軍首脳やマスコミ解説者連中)は、平和、正義、平等、自由と、略奪的資本主義の為“世界を安全にする”為にのみ尽力しているのだと言う、巧妙に練り上げられた神話を必死に信じようとしている。

アメリカ軍が、たまの専制君主と対決し、死者や(肉体的、精神的に)瀕死の重傷を負ったアメリカ兵士達という、必要な犠牲者達を生みだしたのは事実だが、戦争に赴くことの合理化は、往々にして、我々ヤンキー達に自分の国に帰れと説得しようとしている“神なき共産主義者”や、反米“武装反抗勢力”や“自由の戦士”達のそれとそっくりだ。

1945年8月6日と9日は、婉曲に“巻き添え被害”や“誤爆”と表現される、不可避の大量殺りくを常に伴う、あらゆる“総力戦”という政治課題の中で行われる洗脳の二つの好例にすぎない。

我々がかつて知っていて、愛していた、人道的な平和をもたらすアメリカを救い出し、復活させるには、もはや遅すぎるのかも知れない。大企業によるアメリカ・リベラル民主主義乗っ取りに、効果的に対決するには、もはや遅すぎるのかも知れない。利己的に世界を破滅への道へと引きずりこんでいる傲慢で強欲な支配層エリートを、首尾よく打倒するには、もはや遅すぎるのかも知れない。私が「愛想の良いアメリカ・ファシズム」と呼ぶ、継続中のクーデターは、既に目標を達成してしまったのかも知れない。

だが、依然、多少の望みはあるかも知れない。戦争を挑発する連中が(ペンタゴン、軍需産業や、議会内の連中のイヌどもによる極めて意欲的な支援を得て)世界中で引き起こしている戦争に対して、沈黙し続けるのでなく、真実をこれ以上無視することが不可能な今、良識のある人々は、我々が感じるであろう不快さ(認知的不協和)にもかかわらず、歴史の真実全体を学び始める必要があるのだ。

我々の名において仕立てあげられてきた、アメリカの数えきれない戦争犯罪を素直に認める必要がある。そして、我々は街路に出て、犯罪的ならずもの国家へとアメリカを転換している連中に、公に抗議し、ナチス・ドイツとファシスト日本に起きたのと同様に、究極的に、アメリカ国境の外で、苦しんでいる何十億人もの犠牲者達によって、崩壊の標的とされることになる、連中への協力を勇敢に拒否する必要がある。

儲かることや、過度に特権を持った、過剰消費で、持続不可能なアメリカ風生活様式にとって有利なことだけをするのではなく、人類全体にとっての変化の為に正しい事をすることが、本当の名誉、本当の愛国心であり、本当の平和に向けた重要な出発点だろう。

記事の原文のurl:http://www.globalresearch.ca/the-hiroshima-myth-unaccountable-war-crimes-and-the-lies-of-us-military-history/5344436

----------

原爆の代りに、ヘリコプターがふってきた。驚くことはない。間もなく、雨が降ろうが、槍が降ろうが、日本軍兵士は宗主国の侵略戦争の尖兵として活躍できるようになる。アメリカで、スパイ活動や、軍事活動の多くがが、民営化されているのと同様、ワタミや楽天が、傭兵派遣会社を設立し、大いに収益を上げる様になるだろう。いや、その前に、パソナが傭兵派遣部門を設立するだろう?テレビでは、朝から晩まで、傭兵会社の傭兵になって、大学に行こうというコマーシャルが流される。素晴らしい新世界。

敗戦後、日本が独立したと歴史の授業でも、大本営広報部でも吹き込まれる。振り返ってみると、現代日本史を小学校や、中学校で習った記憶はない。

創造性のない/退屈な歴史の先生方に教えられたつまらない歴史の授業は、戦後、アメリカがすること全てが高潔で献身的だ、という愛国的で、しっかり検閲された教科書のおかげだった。50人の同級生全員が、日本の歴史教科書の戦後プロパガンダを鵜呑みにした。我々が日本は“独立している”ことを学んだのはこうした教科書からだ。

数日前、新聞にピーター・カズニック教授の小さな記事が載ったのに驚いた。氏は、オリバー・ストーンの連続シリーズの脚本を一緒に書いた人ゆえ、当然な説。

この話題、ピーター・カズニック教授の『広島・長崎への原爆投下再考 日米の視点』税込み2940円を拝読中。

全体的に納得できる主張をされている筆者には大変申し訳ないが、「我々がかつて知っていて、愛していた人道的な平和をもたらすアメリカを救い出し、復活させる」という部分の論理、全く理解できない。

藤永茂氏の『アメリカン・ドリームという悪夢 建国神話の偽善と二つの原罪』三交社、2010年3月の読者として、またハワード・ジンの『民衆のアメリカ史 上・下』の読者として、到底納得しがたい。

「かつて知っていて、愛していた人道的な平和をもたらすアメリカ」という神話にとらわれていては、人道的な平和はもたらせないだろう。

なによりもまず、彼等の名において仕立てあげられてきた、人道的な平和をもたらすアメリカという神話の嘘を素直に認める必要があると思う。

$私にとって人間的なもので無縁なものはない

以前『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』平凡社版を読んで、目からウロコ体験をした。長崎の遺跡と、広島の遺跡のあまりの違いを、現地で見て驚いた。アメリカの一都市からの碑があるのを、不思議に思った。そうした疑問が本書で解けたのだ。

うれしいことに、その名著が文春文庫化され、しかも、福島原発事故を受けた、読みごたえのある追記まである。税込み価格683円。

下記は、記事翻訳でなく、4本の映画について書いた記事『はだしのゲンが見たヒロシマ・原発切抜帖・ひろしま・あしたが消える』の一部。

広島には、チェコ人建築家ヤン・レツルが設計した広島県物産陳列館、つまり原爆ドームが原爆被害の歴史的遺跡と して残っている。長崎には、同様な姿になった浦上天主堂があったが、不思議なことに、すっかり撤去され、新築された。現在は壁のごく一部が爆心地に移設されているに過ぎない。撤去された理由を追った興味深い本がある。その本を読んで以来、不都合な真実は消されたのだ、と思っている。

高瀬 毅著「ナガサキ消えたもう一つの原爆ドーム」平凡社

asahi.com で「ナガサキ消えたもう一つの原爆ドーム」保阪正康氏書評が読める。

積読よみ崩し読書日記-ノンフィクション系の2009年11月27日記事も、この本の書評。


アメリカ合衆国の戦争犯罪 - Wikipedia




Gen : Pés descalços LEGENDADO PT-BR ( はだしのゲン)

http://youtu.be/TjSxIK8ma0M


Barefoot Gen (はだしのゲン ) Full Movie [2007] Parte 1

http://youtu.be/TPaBsfaF480

Barefoot Gen (はだしのゲン ) Full Movie [2007] Parte 2

http://youtu.be/1a5_UmIw4Ws