【1992年:欧州選手権ベストイレブン】 | 欧州サッカー大好き

【1992年:欧州選手権ベストイレブン】


 



決勝でデンマークに敗れたものの、EURO' 92のベストイレブンに最も多くの選手を輩出したのはドイツで、ユルゲン・コーラーアンドレアス・ブレーメシュテファン・エッフェンベルクトーマス・へスラーの4選手が名を連ねた。


GK:ペーター・シュマイケル(デンマーク)
その選手生活の多くを通じて世界最高のGKと呼ばれたが、その名声を築いたのが、EURO 92決勝だった。1999年のUEFAチャンピオンズリーグ決勝をはじめ無数のビッグゲームに出場したが、イエーテボリでドイツを相手に戦った1992年の決勝こそが、シュマイケル一世一代の大勝負だったと言っていいだろう。PK戦にもつれこんだ準決勝でマルコ・ファン・バステンのPKを阻むなど、好プレーを連発して決勝進出に貢献。決勝ではこれまでのプレーをさらに上回り、ユルゲン・クリンスマンの2度のシュートを含む3回のワールドクラスのセーブで、世界王者のドイツに勝ち、デンマークを夢物語のような優勝に導いた。1992年大会を含め、欧州選手権に4度出場、1998年のFIFAワールドカップにも出場した後、デンマーク記録となる129キャップで代表から引退している。

DF:ジョスリン・アングロマ(フランス)
フランス海外県のグアドループ出身のアングロマは1990年10月、EURO 92の予選で代表初キャップを獲得。デビューのきっかけをつくったのは当時フランス代表監督を務めていた現UEFA会長のミシェル・プラティニだった。パリ・サンジェルマンにも所属したSBアングロマの活躍もあり、フランスは8試合で勝ち点24を獲得し、本大会出場を決めた。本大会では下馬評に反してグループステージ敗退に終わったフランスだったが、アングロマローラン・ブランとともにUEFA選定の大会ベストイレブンにフランス代表から選ばれている。その1年後、オリンピック・マルセイユでUEFAチャンピオンズリーグ優勝を味わい、1994年にトリノに移籍。イタリアでの1年目で好成績を収め、その後はインテルやバレンシアに在籍。フランス代表としては通算37キャップを獲得し、EURO ’96を最後に代表を引退したが、出身地のグアドループ代表として復帰を果たしている。

DF:ローラン・ブラン(フランス)
ブランは1992年と1996年、そしてUEFA EURO 2000と、3大会連続でUEFA欧州選手権のベストイレブンに選ばれた。うち2000年大会では優勝で代表引退の花道を飾り、自国開催の1998年ワールドカップでは出場停止により叶わなかった決勝出場も果たした。通算97キャップを獲得し代表を引退。風格と気品、リーダーシップを兼ね備えていることから“プレジデント”とも呼ばれた。モンペリエ・エローSCでMFとして選手生活のスタートを切ったが、その後センターバックに転向。バルセロナ、インテル、マンチェスター・ユナイテッドをはじめとする9つのクラブを渡り歩き、その華麗なプレーで多くの栄冠に輝いた。引退後はボルドーの監督を務めた後、現在はフランス代表監督の任にある。

DF:ユルゲン・コーラー(ドイツ)
マンマークの守備にかけては史上屈指とうたわれ、西ドイツ代表として1990年のFIFAワールドカップに優勝。所属先のボルシア・ドルトムントでも1997年にUEFAチャンピオンズリーグを獲得している。また、ドイツ・ブンデスリーガでの3度の優勝、ユヴェントス在籍時のイタリア・セリエAならびにコッパ・イタリアの2冠制覇など、国内リーグでも多くの栄光を手にした。バイエルン・ミュンヘンでもDFとして活躍し、当初EURO 96を最後に代表を引退する意向だった。ドイツは同大会で優勝したものの、コーラー自身はチェコとの第1戦の開始わずか14分でケガのためピッチを去り、その後の試合を欠場している。コーラーがより輝いたのは、88年および92年のUEFA欧州選手権だった。最終的に105キャップを獲得し、1998年のワールドカップを最後に代表から退いた。

DF:アンドレアス・ブレーメ(ドイツ)
1990年FIFAワールドカップ決勝のアルゼンチン戦では、終盤でPKを沈めて西ドイツに優勝をもたらした。この試合のPKは右足で蹴ったが、イングランドとの準決勝では左足からのFKでゴールを決めており、歴代屈指のウイングバックと称えられている。代表戦には86試合に出場して8ゴールを記録。1FCカイザースラウテルンを振り出しに、バイエルン・ミュンヘンやインテルで選手生活のピークを過ごし、最後は再びカイザースラウテルンに戻って現役から退いている。UEFA欧州選手権では3大会連続出場を果たし、12試合でプレー。1984年および92年大会ではベストイレブンに選ばれた。いったんは代表を引退したものの、1994年ワールドカップで復帰。これが代表としては最後の出場となった。

MF:ルート・フリット(オランダ)
欧州が生んだ最高の選手の一人。長身にドレッドヘアがトレードマークのフリットは“トータルフットボール”の象徴的選手と言われ、1987年には欧州年間最優秀選手に選ばれた。1987-88シーズンには所属先のACミランで9年ぶりのリーグ優勝に貢献するとともに、1988年のUEFA欧州選手権ではオランダ代表の主将を務め、母国を主要国際大会の初優勝に導くことに。ソビエト連邦と対決した同大会の決勝では、自らも強烈なヘディングで先制点を決めている。1990年のFIFAワールドカップは不本意な結果に終わったものの、ミランが無敗でスクデットを獲得した直後のEURO 92ではその圧倒的な実力を再び発揮。66試合出場、17得点の実績を残して1994年に代表から引退。

MF:シュテファン・エッフェンベルク(ドイツ)
2000-01シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは、バイエルン・ミュンヘンの主将としてチームを優勝に導いたプレーメーカー。歯に衣着せぬ発言が災いし、ドイツ代表でのキャップ数はわずか35にとどまっている。実質的に活躍したのも、大会途中に強制帰国を命じられた1994年FIFAワールドカップまでだった。その4年後には短期間だけ代表に復帰しているが、UCL決勝でバレンシアをPK戦の末に下した当時も国際舞台からは久しく遠ざかっていた。とはいえ、EURO 92では5試合に出場し、2-0で快勝したスコットランド戦で代表初ゴールを記録。決勝ではデンマークに敗れたものの、その後にフィオレンティーナやボルシア・メンヘングラッドバッハを経て、古巣のバイエルンでブンデスリーガ3連覇に貢献。

MF:トーマス・へスラー(ドイツ)
この小柄なプレーメーカーは、西ドイツ時代を含めてドイツ年間最優秀選手に二度選出されている。そして、その二度目の受賞につながったのが、スウェーデンで行われたEURO 92での目覚しい活躍だった。西ドイツが優勝した1990年FIFAワールドカップ・イタリア大会とは対照的に、北欧での欧州選手権では余すところなく実力を発揮。CIS戦やスウェーデン戦での見事なFKを筆頭に、テクニックを駆使したプレーでチームの決勝進出に貢献。現役時代に在籍したユヴェントスやASローマ、ドイツの4クラブでは一度もタイトルに恵まれなかったが、ドイツ代表としてはEURO 96で優勝を経験。その4年後のUEFA EURO 2000にも出場し、ドイツ史上5人しかいない代表100キャップを達成した。

MF:ブライアン・ラウドルップ(デンマーク)
デンマーク代表のリシャール・モラー・ニールセン監督と衝突して以来、兄ミカエル・ラウドルップとともに招集を拒否していたものの、1992年春には復帰を決断。本大会開幕直前にデンマークの代替出場が決まった欧州選手権では、無得点ながらもチームの柱として欧州制覇の原動力となった。さらにその4年後、今度は兄とともにUEFA欧州選手権の舞台に立つと、デンマークはグループステージで敗退したものの、3ゴールを挙げる見事な活躍を披露。1998年のFIFAワールドカップでも輝きを放ち、デンマークを準々決勝に導いた。しかし、通算で82試合21得点という数字を残し、29歳の若さで代表から引退。アヤックスで現役を退くまで、欧州の様々なクラブを渡り歩いているが、最も成功を収めたのはレンジャーズ時代だった。

FW:デニス・ベルカンプ(オランダ)
ベルカンプが国際舞台で頭角を現したのは、EURO 92でのことだった。アヤックスではすでに二つの欧州カップ戦タイトルを手にしており、EURO 92予選で4得点。本大会でもデンマークに敗れた準決勝などで3ゴールを決め、複数の大会得点王の一人となった。スキルに優れたストライカーは、その後もUEFA欧州選手権2大会、ワールドカップ2大会でプレーし、代表で79試合出場、37得点という通算成績を残した。飛行機恐怖症でなければ、2002年の日韓ワールドカップにも出場していたかもしれない。1995年にインテルから加入したアーセナルで伝説的プレーヤーとなり、2度にわたるプレミアリーグとFAカップの2冠など、数々のタイトル獲得に貢献し2006年に現役を引退した。

FW:マルコ・ファン・バステン(オランダ)
1988年のEURO 88決勝でソ連を相手に決めたボレーは、今後もその名とともに語り継がれるだろう。イングランド戦でハットトリックを達成し、準決勝の西ドイツ戦で終盤に決勝ゴールを決めていたファン・バステンは、これで大会5ゴールとして大会得点王に輝く。さらにこの年、最終的に3度手にすることになるバロンドールの一つ目を獲得。EURO 92では得点できず、準決勝ではPKをペーター・シュマイケルに止められたが、至高のストライカーであることに変わりはなかった。ACミランで欧州チャンピオンズカップを2度掲げるも、足首のケガのために代表戦出場は58試合、24得点に留まり、早過ぎる現役引退を余儀なくされた。