こんにちは。Mです。


最近、聖書を読んで思うこと

自由に、感じるままに読むことはすごく大事だなぁと感じています。

 

ちょっとわかりづらいなと思うところでも、
良識を持って、ナチュラルに想いをめぐらすと
なんとなく、「こんな意味かもな」と腑に落ちてきます。

 

その意味が
合っているか間違っているか
・・・それは神様だけが知っていること。

 

すぐに誰かの意見に頼ることなく
聖書を自由に読んでいく・・・

 

楽しい思考の時間です。

 

 

考え込むことで、しっくり来る

聖書の本当の意味を教えるとか本当の解釈なんて誰も出来るわけはないので
聖書を真剣に読んで考えた時間と経験が大切なように思います。

 

出来るだけ何にもとらわれずひとりでじっくり考え込んだことで
すごくしっくり来る考えに出会えました。

 


聖書は主観が入りやすい書物

この「しっくり来た感じ」にもとらわれすぎないようにしたいと思います。

 

聖書は、主観が入りやすい書物だと感じます。

 

幾様にも解釈できる文章が、
しかも翻訳されてずらりと並んでいるのだから
主観に左右されるのもしかたのないことです。

 

だからこそ、
偏見、先入観、思い込みを出来る限り排除して、
常に新鮮な気持ちでいきたいです。

 

そして、

このブログでも何度も書いていることですが、
私だけでなく誰が読んでも
「必ず主観は入ってしまうものだ」と
「完全に客観的な読み方など出来ないのだ」と
常に認識しながら読もうと思います。

 

 

聖書は鏡?

聖書を読むたびに、

ブログを書くたびに、

この「主観の入り込みやすさ」を感じています。

 

 

聖書は、

知らないうちに情緒をかきたてる書物なのかもしれません。

 

よく出来てるなぁと思います。

 

 

それが、

純粋な信仰につながったり

思考力を養う糧になったりすれば良いですが

そうでない、邪心を伴う何かにつながらないよう

気をつけていったほうが良い書物かもしれません。

 

 

私は、キリスト教系団体にはつながらないと思いますが

例えば、

曖昧で暗号チックな聖書の文章を

自分だけが解読した!的な自尊心をひけらかしたくなったり

登場人物の言動があまりに純粋すぎて(あるいは荒唐無稽すぎて)

心理学という知識を使って彼らをからかいたくなったりは

するかもしれません。

無意識のうちに、してしまっている可能性もあります。

 

すでに、これまで書いたブログ記事のいくつかを

思い浮かべることが出来てしまっています^^;

 

 

ヤコブ1章23-25節が

聖書と鏡を対比させている聖句になっているようですね。

 

私にとっては

「聖書は鏡」というのは確かにそうかもしれないなぁと思います。

ヤコブの聖句の主な解釈とは違うと思いますが・・・

 

 

かといって、

「ここをこんなふうに読んじゃダメ」

とか

「こんな解釈するなんて穢れてる」

とか

「そんなふうに読むなんて、疚しいことがあるんじゃないの」

とか

そういうふうに思考を停止させることはしません。

 

 

自然な姿勢で読みます。

それが、多分

私にとっての「聖書は鏡」。

 

 

穢れてても疚しくても

それが、そのときの私。

 

 

聖書に入り込んだ主観を、

聖書の文章とともに考えることで、

「今、ここにいる私」を感じさせてくれているのだと思います。

 

 

聖書の持つ何かしらの力を感じつつ

自分のいろんな性質を省みながら

楽しく和やかに読んでいければと思っています。

 

Photo Credit: Jim Makos Flickr via Compfight cc 

 

 

聖書に触れながらブログを書くことでも、自分を見つめ直せています。

車のバックミラーやドアミラーを見るときのように、これまで歩んできた道のりがわかる時間になっているような気がします。

「ブログは鏡」ですね^^;

 

 

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加筆修正しました 2016/12/12