臨床心理士Mです。


JWの出版物分析を進める前に、
まず申し上げておきたいことがあります。


エホバの証人の出版物の分析にチャレンジしてみますと、
「聖書はどんな書物か」
・・・この問いにどう答えるかが
ポイントになると感じました。


聖書は神からの手紙・・・

聖書は、神からの手紙・・・
と、JW信者の方はおっしゃいますね。


聖書に書かれているのは神の言葉だから、
信仰し実践する意味がある。

そのような感覚を抱かれることについては、私も共感します。


ただ、気をつけておきたいのは
聖書は神本人(人・・・じゃないか?)が
直接書いたものではない、ということではないでしょうか。



聖書の執筆者は?

聖書は、複数の人によって書かれています。


その執筆者は、神とイコールではありません。


マタイ、ヨハネ、パウロ・・・
いずれも献身的に神を尊び伝道した人ではあります。


でも、どれだけ「神に近い」行動をしていた人でも
その人は神ではありません。



「聖書に書いてある」≠「神が言っている」

何を申し上げたいかというと、

聖書に書いてあることは、その箇所の著者が言ったことであって、
決して神が言ったことではない、という点です。


JWの用語を借りれば「不完全な人間」が書いた書物。
私たちと同じ、人間が書いた書物。
それが聖書です。


どれだけ神の啓示を受けて預言者が書いたとしても
その預言者も「不完全」なわけです。



結構わかりやすいかもしれない例え話


聖書に書いてあるからといって、
それが神の言葉とは言い切れない。

そのことを、例え話でお話してみます。



例えば、

高校生が3人いるとしましょう。
A男君、B子さん、C子さん、です。

学校の休み時間、
A男君とB子さんが、C子さんのいないところで話しています。


A男「そういえばさ、俺、あいつ気に入ってるんだよね」
B子「あいつって?」
A男「C子」
・・・ここで、チャイムが鳴ったので
会話を打ち切り、ふたりは席につきました。


後日、B子さんはC子さんと会う機会がありました。
B子さんはC子さんに、A男くんとの会話を伝えました。

B子「そういえばさ」
C子「なに?」
B子「A男があなたのこと気に入ってるって言ってたよ」

・・・さて、このとき、
C子さんはどのような気持ちになるでしょうか。


【C子の受け取り方の問題】
C子さんは、
「A男君が自分のことを恋愛的に好きだと思っている」
と舞い上がるかもしれません。
C子さんがA男くんと普通の友だちだったら、
「A男君は良い友だちだと思ってくれて良かった」
と友情に感謝するかもしれません。
C子さんがA男君にあまり良い感情を持っていなければ
「キモい。気に入ってるとかありえない。勘違いすんな」
とぞっとするかもしれません。
C子さんの心情、バックグラウンドによって
どう受け取るかが異なってきます。


【B子の伝え方の問題】
また、B子さんの言い方にもよりますね。
B子さんが、C子さんを励ますように言ったとしたら、
C子さんはA男君に少なくとも好意を持たれていると思って
うれしくなるかもしれません。
B子さんが、嫌悪感たっぷりに言ったら、
C子さんも
「気に入ってるって何様だよ、感じ悪い」と思うかもしれません。
伝え方って大事ですよね。

しかも、
B子さんも「ありのまま」を伝えることが出来たわけではありません。

A男君は
「そういえばさ、俺、あいつ気に入ってるんだよね。C子」
と言ったのです。
B子さんは、
「A男があなたのこと気に入ってるって言ってたよ」
とC子さんに伝えました。


【A男くんの本音】
C子さん、いきなり第三者から
A男君の気持ちを伝えられてしまいました。
もしC子さんがA男君を嫌っているとしたら、
かなり災難な話ですよね。

でも、災難に遭っているのはA男さんも同じかもしれません。
ここ、一番、重要視すべき点だと私は思っています。


A男君の「気に入ってる」というのはどんなニュアンスなのか?

恋愛対象として好き?
友だちとして好き?
C子のある一部分に好意を持ってる?
C子が自分の思い通りに動いてくれる都合の良い女?
C子のルックスがお気に入り?
・・・いろいろありますよね。

また、これが一番恐ろしい展開かと思うのですが、
B子さんがまるっきり勘違いをしている可能性です。
A男君とB子さんの会話をもう一度思い出してみましょう。

A男「そういえばさ、俺、あいつ気に入ってるんだよね」
B子「あいつって?」
A男「C子」

・・・ここで唐突に会話が終わってしまいました。
A男君が本意を伝えきれなかった可能性も
なきにしもあらずです。

例えば・・・
A男君は、実はC子の貸してくれた本を気に入ってる
つまり、
C子の「趣味」を褒めている。そんな可能性もあります。
また、
A男君は意地悪で、
C子をバカにしたかったのかもしれません。
つまり、C子のおバカなところを気に入ってる、
C子の発言で場が盛り上がるから・・・などの理由で。
もしくは、
C子というのは別人。
B子がお節介にも話を伝えたC子さんではなく、
全然別の、同じ名前の人のことを
A男君は指していたのかもしれません。

↑これらの場合、
A男君はC子に好意は持っていません。

それなのに。
B子に、
「A男はC子を好きだ」
とC子に伝えられてしまったら。

後日談は想像にかたくありません。


A男「B子。ちょ、待て。お前C子に何言ったんだよ」
B子「感謝してよね。あんたの気持ち伝えてやったんだから」
A男「お前・・・」
B子「C子は私の親友だもん、傷つけたら許さないから」
A男「違う!俺はお前が、B子が好きなんだ!」


・・・おぉぅ。衝撃の展開ですね。
いや、王道か。
少女マンガ的には非常によくあるパターンです。

つまり、この場合は
休み時間のA男とB子の会話では、
A男君はB子の反応を確かめるために
「C子を気に入ってる」なんて言ったわけです。

「しょーもない」とか「だめんず」とか「女子なめんな」とか、
A男の評価はすみませんが置いておいてください。


忘れてはいけません。
本当に大切なのは、文脈です。


A男君がどんな意図で、どんな思いで発した言葉なのか。
A男君が指している「C子」とは誰なのか。
A男君の言う「気に入ってる」とはどんな意味なのか。


これ、聖書にあてはめると
なかなか興味深いことになるのではないでしょうか。

A男君が神、
B子が預言者であり聖書執筆者、
C子は聖書の読者です。

・・・だめんずが神ポジションとか笑えないですが。


もちろん、次のようにも当てはめられます。

A男君が聖書、
B子がJW出版物執筆者、
C子がJWの読者。

こちらのほうがおさまりが良い感がありますが・・・



【例え話 再考】
前者(A男=神)の当てはめ方だと、
神は直接しゃべりませんからね。
A男が存在するかも微妙な感じなわけですし。

そこを踏まえて例え話をするなら・・・


A男は架空の存在で、
A男の存在はB子もC子も信じていますが
B子はA男のことを信じ妄想しながら
C子に
「A男はきっとこう言ってるんだよ!」と
伝えている。
・・・そんな展開でしょうか。


・・・今、彷彿してしまったのが

アニメ作品に傾倒して二次創作する腐女子

でした。

なんてこった。
聖書の執筆者を腐女子扱いしてしまうとは。

BLだけはいかん。阻止せねば。


衝撃の少女マンガ展開になってしまいましたし
執筆者=腐女子疑惑まで出てきてしまいました。
いろいろと動揺しております。


もっとわかりやすくて的確な例えを思いついたら、
差し替えることに致します。


ほんと、そんなつもりなかったんですが、
キャラが勝手に動き出しました。
創作の神が降臨したのかもしれません。

(と、いろいろ不適切な発言をしつつ
 この項目を終えます(笑))




聖書の「意味」を考える

さて。

だからといって、
聖書を信じるなとか軽んじろと言っているわけではありません。


不完全な人間が書いたとしても、
「聖書」として認定されているのですから
神学的に、意味がある書物であることは確かでしょう。


ただし、
人間が書いているので
神を崇めるがあまり熱が入り
話を盛ったり
ちょっと嘘書いちゃったり
している点もあるかもしれません。


読む人が、
聖書をどう位置づけているか、
聖書の「意味」を考えることが大事だと思います。


聖書に書いてあることを
そのまま「神の言葉」として信じるのは自由ですが、
私は次のように聖書をとらえています。


いろんな背景を持ついろんな立場の人間が、
神のことやイエスのこと、信者のことを想いながら書いた書物。



JWの出版物≠聖書

JWの出版物についても同じです。

いろんな背景を持ついろんな立場の人間が、
神のことやイエスのこと、信者のことを想いながら書いた書物。

ただし、
JWの出版物は、当然、聖書とは異なります。
もちろん、
JWの出版物に書いてあるのは、神の言葉ではありません。

信者を増やすために、
読者に聖書を信じさせやすくするために書いた箇所が
あるかもしれません。

信者離れを防ぐために、
多少、聖書からの引用が強引になっても
信仰を継続させるために書いた箇所もあるかもしれません。


私は、ほかの学問に携わるときと同様に
誠実に、かつ適度な疑いを持ちつつ、
出版物の分析をしていきたいと思っています。

かなり冷静度が上がります。



JW出版物の印象操作

例えば・・・

JWの出版物において、
「聖書は『○○○』と言っています」
という記述は
「聖書の中で『○○○』と預言者××は書いています」
というほうが正確になることもあるでしょう。

同様に
「神は『△△△』な方です」
という記述は
「使途××は『神は△△△な方』だと言いました」
というほうが正確になることもあります。


どうですか。
印象が変わりますね。

本気でのべつたえようとするなら
のべつたえようとしている内容について
印象操作をしてはいけない、と私は思います。



聖書の読み方・JW出版物の読み方

「聖書にこう書いてあるから○○すべき」
とか
「聖書の○○という記述はこう読み取れる」
というのは
自分で考えを言うのは良いけれども
人に押し付けてはいけない、
ということでもあると思います。


聖書の理解は、聖書を読んだ人本人がするものです。


おかしいな、とか
何だろうな、とか
ここどういう意味かな、と思ったら、
いろんなツールを使って
納得いくまで調べたほうが良いのではないかと思います。


JWの出版物からしか情報を得ないのは
閉鎖的であり公平さ・公正さを欠く危険があると思います。


どんな情報も、不完全な人間が発したものだからこそ、
調べられるだけ調べて、
考えられるだけ考えて、
自分が信じられるところへ到達していきたいと思うのが
向上心や誠実さを持つ人・・・なのではないかと思います。



聖書とJW出版物を前にして、最後に

聖書に書いてあるならそれでOK!という考え方なら別ですが、
聖書の正確さをのべつたえようとするなら
聖書を自分なりの解釈でのべてはいけないと思います。

特に、大勢の人に配布する出版物であれば。

解釈が入るなら、
きちんと「ここは○○による解釈です」と述べなくては
フェアではありません。


というか、不完全な人間が執筆している時点で、
聖書や出版物に「完全さ」や「正確さ」を
求めてはいけないような気もしますが。


聖書に基づいて神を信じようとするなら、
時代、文化、執筆者の意図、
そして聖書には実際にどう書いてあるのか、
「真実」をのべつたえてほしいですし
聖書や出版物を読む側も、
聖書やその他のデータを盲目に信じることなく
冷静に、真摯に、調べていく必要があると思います。





私も、このブログを書く際には
いろいろと気をつけています。

きっと、
誠実で真摯な聖書執筆者の人たちも
主観がなるべく入らないように
客観的に書けるように
がんばっていたのだと思います。

時を超えて
なんだか親しみを感じます。僭越ながら。

主観というのは
どれだけ排除しようと思っても入ってしまうものです。
そのことを自覚しながら、
客観性を保つ努力をしつつ
このブログを書いていきたいと思っています。




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