前記事に続き挨拶の話。



これ、たかが挨拶なんだけど、実は意外と奥深い?んだと思います。



向こうから挨拶しないどころか、こっちが挨拶をしたにも関わらず、相手はガン無視。


それに対してあの人は挨拶もできないような人なのよ‼︎ってイラっとする。


そういう人なんだ‼︎って思い込んでも、やっぱりイラっとする。



何故か?



お母さんに厳しく言われてたんじゃないですかね。イラっとする人って。



挨拶ぐらいしなさい。


挨拶もできないの?恥ずかしい。


もっと大きな声でしなさい。



そんな感じのことを。



だから、挨拶はしなければならない。


挨拶されたら、しなければならない。



じゃあ何故お母さんはそんなに挨拶に厳しいのか?


もちろんお母さんは『子どものしつけ』のつもりなのでしょうが、違います。


お母さんは、お母さん自身が『元気に挨拶できない子のお母さん』って目で周りから見られるのが死ぬほどイヤなんです。


お母さんは、挨拶をすること、挨拶を返されることで愛と承認の欲求を満たしているのです。



私は挨拶をしました。だから嫌わないでください。(愛)


私は挨拶しました。だから存在を認めてください。(承認)



挨拶はお母さんが愛と承認をもらうために死ぬほど大事なものなんです。



挨拶されたら、挨拶がかえってきたら愛と承認。


かえって来なかったら拒否と否定。



死ぬほど大事なものなのに、もし自分の子どもがちゃんと挨拶ができなかったら、自分が『挨拶ができない子のお母さん』になってしまう。あのお母さんダメねって思われてしまう。周りから。


たかが挨拶ひとつなのに、そのたかがでお母さんが何よりおそれる、拒否と否定が待っているんです。



だからうるさい。厳しい。



お母さんにとって挨拶は、しつけと称する『私が死ぬほど求めている愛と承認のために、しっかり挨拶しなさい‼︎』っていう脅迫だったりするんです。



で、そうやって脅迫されて育った子どもは、『挨拶をしないと愛と承認がもらえないということ。挨拶がかえって来ないということは愛と承認がもらえないということ』と勘違いをして、お母さん同様挨拶にうるさくなります。


そして、相手から挨拶して来ないとか、こっちからした挨拶にスルーするとかからの(勝手に感じる)拒否と否定に耐えられず、相手を『べき』で非難し、相手を下に見て自分を上げ、何とか自分を保とうとするんです。


これが、相手が挨拶をしないことにイラっとする仕組み。



これは色んなことにもあてはまるので、ぜひ応用して考えてみてください。


そういうことか‼︎ってなると、イラっとがぐっと減ります。



これは、私が◯◯をあげるから、あなたは◯◯をくださいっていう行動のひとつです。


結局愛と承認が欲しいだけ。



けど、もらえないのよ。どんなに求めたって。


これは、一番最初のボタン。


お母さんが普通人なら普通に正しくはめてもらえたボタン。普通人母なら掛け違えなかったボタン。


おウ◯コ母だから間違えたボタン。掛け違えたボタン。


おウ◯コ母が間違えたのだから、おウ◯コ母にしか直せない。


でも、時間は戻らない。私たちはもう子どもになれない。


お母さんはボタンを掛け違えたんだってことを、受け入れるしかない。それしかない。


母以外の『誰か』には、ボタンは直せない。


そもそも違ってることに気づかないか、気づいても何も言わず通り過ぎて行くか、時々教えてくれる人が現れるかもだけど、間違ってない‼︎何でそんなこと言うの⁉︎ってあなたがキレるか。


運良くあなたが気づいたとして、お母さん何でボタン掛け違えたの⁉︎って言ったところで無駄。


お母さんはおウ◯コだから、キレる。間違ってない‼︎って。もしくは泣く。一生懸命やったのよって。それか開き直る。今さらそんなこと言われても。


だっておウ◯コ母はおウ◯コだから、自分の愛と承認を満たすことしか考えられない。それ以外のことができない。


できないからおウ◯コなあなたになってるんじゃん。



気づいたら諦めて、今から自分で直すしかない。



挨拶をする権利はその人にあります。


しなきゃいけない義務はありません。


あるのはお母さんからもらえなかった愛と承認を満たしたいっていうおウ◯コ人特有の欲求。それだけ。



もらえないよ。一生。



でも、それだけ。もらえなかっただけ。


ただそれだけで、あなたはもともと価値ある存在。居ていい存在。



そんなくだらないことにイライラしてないで、早くそのことを思い出した方がいい。