「パパラギは あまり考えてばかりいるので、それがもう癖になり、なくてはならぬものになり、それどころか一種の義務にまでなってしまった。彼らは切れ目なく考え続けなければならない。
考えることではなく、からだ全体を同時に使って活動することが、彼らにはむずかしくなってしまった。頭だけは目覚めて働いているのに、からだの感覚はすっかり眠りこんでいる・・・

かしこいサモア人なら、暖かい光の中で手足を伸ばし、何も考えない。頭だけでなく、手も足も、頭も、腹も、からだ全体で光を楽しむ。皮膚や手足に考えさせる。頭とは方法が違うにしても、皮膚だって手足だって考えるのだ。」

南海の酋長ツイアビの演説集”パパラギ”から。
パパラギは白人を指すが、”わたしたち”かもしれない。

自然と共生しているサモアの人からみた 現代人観です。

天と自分の関係でとらえるとき、
「本質は”ひかりを楽しむ”ことである
からだの各部分には、意思があり、魂が宿っている。」
と読めました。

からだの各部分は独自の存在でもある。
通常は、本質たる魂と連携して その人が果たすこの世の使命に協力するが、
体への感謝を忘れた行いには、様々なメッセージを送ってくる。
決して支配従属の関係ではなく、からだの独立した意思に反して酷使すると、病気などの反乱を起こす のかもしれない

よくマラソンン選手などが 体に聞くという表現をする
トレーニングを積んできてもその必要の体調で さて”そこ”からいけるかと聞くというのだ。勝負どころでスパートを掛けられるのか 余力を残しているのか 身体と対話してレースの勝負どころを探っていく。魂と身体各部の納得を得た協調作戦。

身体各部には、魂が宿ってる。生命体として向かい合い、感謝がいるんだろうなぁ。

からだに感謝して ありがとうというと
うまく調和し 体からの智慧も 貸してもらえる
全体で一つなのだから。