ビルもクリスも、ジム・クリードさんも、大好きだったけれど、ギィや清様や、ドン・ジュアンやロベスピエール(マキシム)に、より強く惹かれてしまう。
陰が濃いからキャラクターの陰影がはっきりしていて、より色っぽく見えるということもあるけれど、その拗らせ具合に婆や的視点で放っておけないような思いにかられているような気もする・・・純粋なときめきだけでないところに、自分でちょっと悲しくなるわぁ 。゚(T^T)゚。
『ひかりふる路』のマキシムも、『金色の砂漠』のギィも、自分の中に大きな空洞を抱えているというのか、思いっきり隠しているけれど、自分が一番自分を認めてないというのか・・・
だから、マキシムは革命の理想に、ギィは復讐(タルハーミネに、かも?)に、それぞれ拘り続けて暴走しちゃったように思う。
マキシムのそばにはダントンやマリー=アンヌ
ギィのそばにはジャーやピピ
今、見ている世界の捉え方は変えられるって言ってくれる人たちもいたけれど、それも自分を否定されているように感じて受け入れられなくって。
ダントンやマリー=アンヌは「あなたは間違っている」って、詰め寄ってたからどうしようもなかったかも?だし、ジャーやピピは悟りすぎててギィの生々しい心情には届きづらかったのかも?だけど。
でも、こんな風に↓自分自身の一部から受け取ることができたなら、あんなに苦しい生き方をしなくても済んだんだろうなぁと思ってしまう。
叶うことなら、ここにあることを伝えられたら、と思ってしまう。
とは言えマキシムやギィが変わってしまったら、物語が変わっちゃう、というかマキシムに至っては歴史が変わるから、到底無理なことなんですけれど、婆やとしては、つい坊っちゃまがたがお健やかであれば、とつい思ってしまうのです
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