「思いやり」に自信のない者は
今すぐ免許を自主返納しなさい

これは助言である

教え子の命を奪わない為に

そもそも

「教育・指導」は「思いやり」である

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

勉強という言葉が
教育を凝り固めている

強く勉めるはいいとして
強いるイメージが気にくわない

痛い辛いだけでは拷問に等しい
楽しくなくちゃ継続のしようがない

知的好奇心を満たすのは
楽しい愉しいお遊びでしょ

「勉強」改め「遊戯」としようよ


序の口は「思いやり」

以下は二の次

自分の知識を披露するために
教えることで自分を満たすために
青春を感じ続けるために
誰かの記憶に残るために
性欲を満たすために(これは論外)

教鞭を振るう

そんなゲス教育者が多過ぎる
表面的であり、本質的でない

表面を軽視せず、本質を重視するべし

まるで独裁者だよ ( ´△`)

なぜ?
カダフィに憧れるのか理解できない

ドMなのかな?

カダフィ路線まっしぐらだよぉ〜

本末転倒の今ロス教育であることに

気づき、理解し、心得てほしい


教育は死んだ。

本当の本当の本当に
多くの教育者が打ち首レベルの
大罪を犯し続けていますからね

尋常じゃない状態ですよ

本来の目的を見失っている
達成せずに放置している仕事放棄です

赴くだけで全く鎮火させずに
帰ってくる消防士状態です

本当に為すべき事を全く成していない

仕事量が多いのは
不要なことばかりしているから

本当に必要なことだけすれば
仕事量は激減しますよ

教師が教え子に教科書の内容を教えて
教え子の頭には中々定着しない
それを何十年も繰り返す

あなたが教えてるから定着しない
たったそれだけなのに

あなたが教えなければ
どんどん定着していきますよ

教育者になると
教えるという立場上
自分が正しいみたいな
ゲス心理に陥ってしまいがちである

誰からも突っ込んでもらえないと
さらに拍車がかかってしまう
自分では中々制御できなくなる

生徒ではなく
先生の成績をつけるべきですね
そうしたら
先生は抑制され謙虚になりますね

ストレスを教え子で発散する

そんなゲス教育者も少なくない

本当に打ち首レベルですよ

本当に教育は死んだ。


人手不足は自然な流れです。

それで廃れていくのも自然な流れ。

それを防ごうとすることには
温もりを感じますが

欠点のあるもので欠点を補うことにも
温もりを感じますが

欠点のないものはないとしても

余りにも値しないもので補うのは
ザ・本末転倒ですよ。


私は凝固したものを
ほぐしているだけです。

本来の能力が解放するように…

--------------------

コミュニケーション英語で
口頭能力を伸ばそうとする必要はない
教科書ストーリー読解力を伸ばせば充分だ
それさえ養えていないのが現状
教育指導で教えようとするから陥る
児童生徒のペースで熟させればいいだけの話

教育者指導者のペースだから上手くいかない
現状では浮気にて熟せない
教えようと意識するから育めない
育もうと意識する=思いやるだけの話
相手を受け入れることを意識するだけでいい

霊性を置き去りに物性だけ進めても空振る
母国語でさえ寡黙な人が多いのに
外国語で無理やり弁を促すのはナンセンス
心を閉ざしている人だらけである
そこを観ようとする必要がある
思いやりが不可欠である
児童生徒を受け入れるだけでいい

いつでもどこでもそうだ
相手を受け入れるだけでいい
それにより道筋は自然に観えてくる

そもそもコミュ力の真髄は聞き手にある
話し手の言うことを聞き入れる能力である

それに授業で養えるものじゃない
コミュニケーション力を望む人だけが
日常的に自発的に思いやっていくだけの話

誤用の自然な訂正の仕方も
相手を受け入れるだけで自然に観えてくる

そもそも誤用なんてあるのかな?
基本的に自由ですから、
わざとの誤用は誤用じゃない。
観る目を肥やさないと観えてこない。

ベトナム(教師>学習者)
日本(教師 ≧ 学習者)
カナダ(教師=学習者)

物理的なものなら文化の違いと言えるが
心理的なものなら思いやりの程度の違いだ

カナダについては、思いやり?悪魔崇拝?サーチ

教師と学習者の間で100%の理解は必要か?

そもそも
教師と学習者というように
役型にはめる必要性は皆無である
自分は教師なんだと思うと気が狂ってくる

役だから動く=マニュアル機械人間
心により動く=人間

支配欲に駆られること勿れ‼︎

リアクション養育にはいいが
その前にアクション養育でしょうから
授業中に教員が指名する行為は不要である

大人も子供も浮気迷惑状態である
気持ちが浮つき迷い惑う状態である

そんな自分を見つめ直さない限り
何をやっても上っ面で空振り続ける

心ある思いやる受け入れる

それを望むか否か
単なる思いやりの程度の話である。

先生=送り手、学生=受け手、ではない!

先生も学生も皆が皆、
常に、送り手であり、受け手である。
万事、送り手次第でなく、受け手次第である。

--------------------

学習者を子供扱いする。間違いを馬鹿にする。
=学習者を受け入れていない。心ない野蛮人。

教師は学習者を励ますこともできれば、
一言で学習者を傷つけてしまうこともある。

それは送り手次第な既存のカッチ価値観です。

送り手次第の場合、切りがなく八方塞がりに。
何をするにも、それをしたら誰かしらが…
という風にどんな場合にも適用されてしまう。

結局、送り手だろうと受け手だろうと、
迷惑浮気状態ならば没落フラグが立つ。
不惑落着状態ならば安泰フラグが立つ。

万事、送り手次第でなく、受け手次第である‼︎

皆が皆、常に自分を発している。
存在しているだけで常に送信している。
それに対して壁を設けると独りでに苦しむ。

壁を設けることを態々しなければいいだけの話
何もしないことが受け入れている状態そのもの

教育課程では、そういった本質(=基本)を、
普遍的な抽象的な事物を、呈することが重要。

具体的な事物については、
興味のあるチャンネルを勝手に見るよ。

外国語だって、ユーチューブ等々で、
外国語の配信を見聞きしていれば養われる。

自己紹介で自分のトリセツを紹介する人は‥虚

自分はこうだと決めてかかる安本丹
それでは成長しませんww

まず受け入れろ!それがトリセツ!
そうじゃない!自分から受け入れろ!
勿論アレルギー等の有無の確認は大切である。

自分は自分を満喫すればいい
そして周りを拒絶しなければいい
それが持続可能な明るい社会の基盤だ

誤用をしっかり訂正するか、
やんわりフォローするかの二択。

0か1で判断するノイマン型スペック‼︎

授業全体の雰囲気や、
先生との関係性など様々なことが絡む。

0〜1で判断する量子型スペック‼︎

具体的にではなく、
抽象的に捉えることを勧める。
抽象的基本を具体的応用するのである。

抽象的基本(本質)を捉えておいて、
その都度、具体的応用(表現)するだけだ。

日本語教室運営や自身の取り組み方、その活動すべてにおいて正解は無く、それぞれが「解決方法が見つからない」「モヤモヤした気持ちはあるのにどうすればよいのか分からない」と途方に暮れる思いも……

正解はない正解はない一周回って正解はある!!

A:常日頃から自分を思いやり受け入れて生活する。
⇨:周囲のことも思いやり受け入れられる様になる。
⇨:観る目が養われて自然に道筋が観える様になる。

教えたい欲は「支配欲の一種」呉々も呑まれぬように。

--------------------

この4か条について
さらにふかぁ〜く思うと、
ぜんぶ「受け入れる」に結びつく。

この4か条は、ぜんぶ、
何かを受け入れることで達成する。

何かとは。

自分や相手、そのほかのぜんぶ。
できるかぎり多くのことを受け入れる。

受け入れるとは。
受け入れないことをしないこと。

何かを受け入れない人は、
その何かのことを心から嫌がる。

それをしない。=「受け入れる」。

それを知らないまま、
4か条をしていてもモヤモヤする。
何かが足りない気持ちになってしまう。

なので必要なのは1か条、「受け入れる」。

--------------------

生命を見守る。それこそが先生の務めである。

見守れない人。支配欲に苛まれる人。
その人たちは先生役としては似非確定である。

2011年03月11日
あの日、多くの似非先生が子供を道連れに……

似非先生は子供を守る気なんて更々なかった。
実際の心情は混乱状態であった。
冷静な子供も似非先生の餌食になった。
日頃から子供たちを思っていれば回避できた。
イベント時だけ張り切っても空ぶってしまう‼︎

2012年03月11日
その日に一体何が起きたのか?
それを知らない先生は心許ないです!

教科書と参考書(=月刊ムー)の二刀流‼︎
じゃない先生は何が何だか分からず流される