小林よしのり氏の戦争論を読んで、心に留まっていた続きです。
戦後サヨクたちは、特攻隊の負の部分を懸命に探し、強調し、でっち上げようとする。
何とかその価値を下げてしまおうと企む。
しかし、彼らの遺書や手記などの持つ人の心を打つ真実性は、読めば読むほど否定しようがない。
そこで戦後サヨクはこう利用する。
かわいそうに、、、気の毒に、、、
やっぱり戦争の犠牲者だ。
反戦平和のありがたさがわかるでしょ。、、、と。
かくして各地の特攻記念館ですらも、どこか反戦平和が基調にあって、戦後民主主義的呪縛から逃れられない。
彼らは平和を望んだであろう。
しかしいくらなんでも、「反戦平和」のために戦ったというのは、的を射てはいない。
彼らは何のために、「私」を捨て去って行ったのか?
「私」を超える価値があって、信仰も生まれる。
道徳も倫理も生まれる。
だが日本には一神教のゴッドが与える価値はない。
それでも特攻隊の若者たちは、道理を貫き、徳を行なおうとする。
彼らは「国」を守ることによって、道徳的にふるまうことができると確信していたのだ。
その「国」とは何か?「皇スメラ御国」とは?
それは、サヨクが言う「反戦平和な人々のいる所」では断じてない。
「政府」でもなければ、「領土」でもなく、「領土に住む人々」でもないと、わしはあえて言っておこう。
そして最近の親米保守派が言う、「国民の生命・財産」でもなく、「自由と民主主義」なんてものではもちろんないのだ。
アメリカを、日本の「公」としてしまったために、本当は何もわかってなかったことを露呈してしまった親米保守派にも、わしが改めて教えてやろう、、、
日本人が守るべきもの、、、
それは、、、、、『伝統』である。
「靖國のこえに耳を澄ませて」(打越和子著・明成社)
この本は、わしが読んだ特攻隊に関する本の中で、最高峰の出来である。
この中に、鹿児島の鹿屋基地を発って洋上を10時間飛行の末、南洋のウルシー湾に浮かぶ敵艦に特攻した22歳の若者、高久健一氏の話がある。
言っておくが、当時の20歳代で特攻で散華した若者は、知的水準の恐ろしく高い者が多い。
知性においても、精神性においても、優秀な者はみんな戦争で死んでしまったのではなかろうか?
高久氏が20歳の青年教師の時、
「若者の生命」と題して書いた文章の一部を次に紹介する。
生は伝統の中にある。
人間の伝統、民族の伝統、学校の伝統等、、、
、、、然し生の偉大さは国へのつながりにあると
言ってよい。
私達はその伝統の中に於いて、
如何に反逆してみてもそれは不可能である。
内村鑑三が「俺が此の国に生を享けたのは偶然であり、俺の与り知るところではない」
などと言っても、彼の血の中には受継された国
の血潮がある。
そして、それを否むことは出来ない。
人間の博愛などといっても、
人間が伝統を否定し、歴史を無視して、世界人
のモラルを確立することを願ったのは尊い事で
はあろうが、合理主義の果敢な錯覚であり、没
落であった。
生きている。
その事は論理や主義に遊んじているには、余り
にも烈しい祈りであり、詩であり、慟哭であ
り、そして、決意であるのだ。
詩うこと、祈ることは、、、常に批判を超克している。
20歳でこれである。信じられない知性だ。
昨今、50にも60にもなったおっさんが「保守」を名乗って、アメリカの戦争の合理主義を無批判で支持し、守るべきものは、生命と財産と自由と民主主義などと公言している有り様に比べ、何という知性の開きだろう。
高久氏の次の言葉にも注目するがいい。
「成果がなければ、凡てが無駄であると論ずる
者は、人の美しさ、日本の伝統を知り得ぬ者で
あろう、、、」
彼らが守ろうとした「伝統」とは、何か?
それを言葉である程度のところまで、わかりやすく述べることは可能だろう。
2千年の歴史の中で、脈々と受け継がれてきたものの見方、感じ方は、我々、日本人の中にかなり高度な感性として宿っている。
それは、歴史のない某国や、歴史を破壊した某国とは比較にならない高度な感性としてだ。
感じるのだ、歴史を!
それは歴史おたくになって、勉強ばっかりすることではない!
身体に宿る、日本人の感性を呼び戻せ!!
日本は自然に歴史を積み重ねるうちに、暗黙のルール・慣習を育んできた国である。
人工的なイデオロギーで、昨日、今日、こしらえた国ではない。
道徳は歴史の積み重ねの中で、他者との関わり方の善悪を判断する基準・規範として、
我々の言葉や美意識の中に宿っている。
日本が道徳を取り戻し、国際社会で名誉ある地位を占めるためには、我々が「伝統を受継した国民」にならねばならない。
アメリカ型の「自由」と「民主主義」という単色のイデオロギーで、世界が塗りつぶされることはないから、安心するがいい。
世界は多様であったほうが面白い。
若者よ。
「リアリズム」は単なる「保身主義」ではない。
必ず日本の「道徳」が国際社会の調停に役立つ時が来るだろう。
それが日本の「真」の国益となる!
<道徳をどう説くか、、、>
、、、何でもいい。
何でもいいから、たった一度の敗戦で牙を抜かれてしまったわけではないことを、なぜ示せないのだ、日本人は?
なぜアメリカを「公」とすることに羞恥を感じない?
なぜ道徳を一切顧みずに「保身主義」こそがリアリズムだと居直って恥じないでいられる?
もはや戦後60年を経た平成の日本人は、歴史感覚が自分の感性に内蔵されていないのだ。
知識としての歴史ではない。
それでは単なるオタクでしかない。
日本人の歴史の中で育まれてきた美意識は、
公正さの感覚、
天に背く疚しさ、
御先祖様への敬意と畏れ、
道を踏み外すことへの戒め、
徳を積むことの大切さ、
いろんな道徳観念を導き出したはずなのだ。
それは歴史のないアメリカや、歴史を断続させてきた中国にはない、日本が誇るはずのものであった。
これを失ったら、世界史上に日本という国が二千年の歴史を永続させてきた意義が失われてしまうと言えるほどの貴重な「公」的観念であった。
そもそも歴史を喪失した者は「国民」ではない。
それはその時々の流行のイデオロギーに影響されるだけの浮遊民である。
、、、、、、我々の先人たちが、
いかに潔癖であったか、
いかに道徳的であったか、
日本の何を守ろうとしていたのか、理解して欲しい。
日本は独立しなければならない。
あくまでも最終事態を設定した自主防衛の構えを作らなければならない。
朝鮮半島、中国、台湾、ロシアという近隣諸国に限っても、将来の世界情勢がどのように変化するかなど予測もつかない。
憂慮すべきは、我々の子孫が置かれる困難な境遇である。
道徳を捨てて、アメリカ依存で今日明日を生き延びてさえいればいいとしか考えない我々の世代など守るにも値しないが、
かつて自力で欧米列強の侵略に抵抗した先人たちの思いを汲み、
子孫に国際社会を主導していく知恵と力を獲得させるために、
我々はリスクを背負う覚悟をせねばならないはずだ。
人は誰もが苦悩を背負って生きているのだろうと思う。
「私」と「公」の葛藤と平衡の中で「個人」の活力を生み出している、、、、、、
仏さまが説かれています。
人は何の為に生きているのか、、、?
二つとない寿命、命の継続は、我の力にあらず、、、
自分ではどうしようもないことです。
先祖、両親より賜ったものです。
しいて言えば、仏さまより授かった寿命、命であります。
仏さまからいただいた寿命、命は、輪廻転生する一切衆生、一切万物すべての魂を、救い助け幸せにするためにいただいた命であり、
世のため、
人のため、
社会のために、
しかもより善き因縁を為すために、いただいた命であります。
天命とは、正しく大きく世の中のお役に立つことであります。
国家大乗のために役立つ働きをするから、大きな寿命を、健康な身体をいただくのであります。
功を積み、徳を重ね、善いことをたくさんする人生を送り、天寿を全うしてほしいとの願いで、仏さまのお慈悲により生まれさせていただいた我々業障深き人間であります。
悪世末法、、、
悪が盛んになれば、それ以上に善を盛んにしないと悪を押さえられません。
生老病死の苦を伴う恐怖、、、
自然の脅威による恐怖、、、
人間の作り出す恐ろしい心による恐怖、、、
65億の人口、、、何%の人が善の心を持って、自分を律しているか、、、?
神仏の国、日本国が、日本人が鍵を握っていると思います。
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