ていねいな暮らしを手放し、
より自分に優しく、より快適に生きる。
このモットーのもと、私が手放してきたものをご紹介しています。
今回は、「ていねいに出汁をとること」です。
「出汁をとる」ことが、ていねいな暮らしの代名詞になったのは、いつからなのでしょう。
日本料理を学んだ私としては、家庭料理における「出汁」については、ずっと違和感を感じていました。
特に違和感を感じるのは、鰹節と昆布の一番出汁でお味噌汁を作る、なんて場合。。
もちろん、私もお出汁は大好きです。
本当に美味しいし、洗練されていて、他に何も要らないくらい。
そう、ポイントはそれくらい「美味しい」「完成されている」ということ。
ちゃんとしたお店だって、
一番出汁を使うのは、お吸い物のような透明な汁物や、具が豆腐とわかめだけのようなシンプルな赤出汁の時など。
煮物には二番出汁を使います。
それなのに、
なぜ家庭のお味噌汁や煮物で、一番出汁を使う必要があるのでしょう。
出汁というのは、肉や魚からはもちろん、野菜からもお豆からも、味噌からも出てきます。
日本料理では、出汁を「引く」という表現をしますが、出汁は素材から引き出すもの。素材が本来持っているものです。
家庭のお味噌汁は、具材から出るお出汁と、足りなければ
昆布や煮干しをそのまま入れたらいい。
煮物は、肉や魚の味を引き出したらいいのです。
乾物からもとってもいいお味が出ます。
それを一番出汁に頼るのは、出汁にも具材にも失礼ってものです。
そもそも昆布も鰹節も、時間をかけて作られた高級なものです。
それをたっぷり使ったお味噌汁なんて、昔から食べられてきたはずはないのです(庶民は)。
それはていねいな暮らし、ではなく「贅沢な暮らし」な気がしてしまいます。
よく考えたら、
ていねいな暮らしと「贅沢な暮らし」って、似ているものなのかもしれません。
過去の私も、
ていねいな暮らしをしているはずが、ただの贅沢、ひいては浪費になっていた部分も否定できません。。
ていねいな暮らしは、ゴールではなく、
気がついたらなっていたという「結果」であるべきなのかも。と思ったりしています。