気づいたらこんなに。

一応、月1回くらいの頻度では更新したいと思っているんですけどね。

 

さて、次の介護保険の改訂情報が提示されましたね。

訪問リハビリの役割は前回の改定の頃からも言われていましたが、いよいよ本格的に始まりそうですね。

現場任せてで運用していると難しくなり管理者にも介護保険の理解が強く求められるようになってるなと。あとは地域全体として地域で支える環境を明確化しないと難しくなりそうだなと思っています。

 

個人的には、こういった制度改正は、臨床にも大きく影響を与えると思っています。

それは臨床で我々が取り組む時にリハビリ以外の時間の在り方に関わると同時に、医療とどのように関わるのか、在宅生活をどのように支援を行いながら自立に向かっていくのか?ということに繋がるからです。

そして、このために具体的にどういった行動が求められるのか?というと、恐らく医療の現場で在宅でどのように生活したいのか?どのように生活してもらいたいのか?といった側面を具体的に取りあげておくことだと思います。

 

ここで「家では面倒を見られません」というのが通りにくい時期に来ているのは、どの職場でも働き手不足から実感していることでしょうが「家でどうやったら見ていけるのか」という事に焦点をあて、行なうには病院の中でも専門職が生活について考えていく必要があると言うことだと思います。

 

リハビリテーション医療は、治療を行うことではなく行為や生活の回復をはかることが本質であるとつくづく感じます。

リハビリテーションという世界で仕事に関わると、この点については必ず考える必要が出てくる。

そこでポイントとなるのは「自己研鑽を行わない」=「悪」ではないと言うこと。

昨年より、リハビリテーションの世界でも年休は希望で5日の取得が起こっている。この背景には、組織としての質の担保を求める流れがあると考えると良いと思う。

つまりは組織として職員が休みやすい環境の整備を求められており、環境を整備するのであればセラピストには飛び抜けた技術よりも平均がした組織としての技術力が求められていると考えることが出来る。

要は「休む」=「出来ない」ではなく、「休む」=「代わりの人でも同じレベルで可能になっておく」という流れと言うことである。さて、ここで気付く方もおられると思うが、個人の技能はそこまで重要視されていないという流れを生み出したと言える。

ここで問題視しなければならないのは臨床実習指導者の養成研修においてリハビリテーションは最初の3年は指導者がついて出来るようになりなさいとしているところである。

それらは職場レベルとしているという点もポイントといえる。

 

医師の世界では自分が出来ないことは、指導者がつく。出来ないことはやらない。もしくは他の方に任せるというのが一般的である。これは他の業界でも見られる光景である。

 

今日の社会システムでは出来ないスタッフに任せる仕事が乏しくなるわけだが、乏しくなることが悪なのではなく、乏しくさせたまま放置することが問題と考える。働き方改革によってそういった側面があることも十分に理解する必要があると同時に、組織のあり方として見直す時期に来ているということだろう。

 

ただ同時に、自身が自己研鑽を行わないことで仕事で被るであろう評価は当然と思う必要があるだろう。

そして、研修システムを整備していない職場は今後選択されないという傾向となることも理解しておく必要がある。

 

 

そう考えると、自己研鑽というのは減ってきて、組織として研修をどのように行っていくのかということが重要となってくるのかも知れないな。と感じる今日この頃。

基本的に政治的な発言は自分は好まないし、こういう所で書くことでないというのは自分のポリシーなんだけど、リハビリテーションセラピストとしてはあまりにも悲しく、考えていきたいことなので書きたいと思う。

 

今日は(既に昨日だが)、首相が健康上の問題から辞意を表明するという日となった。

このことについて権利だからとか危機管理が出来ていないとかという言葉をとある方が発言されているのを目にし、驚いた。

ついでに言うと、そんな人を推薦したところが悪いといった趣旨の発言も。ブラック企業みたい。という

 

 

そもそも、病というのは人間が年齢を重ねればかかりやすくなる。場合によっては若い方であってもかかるし、生まれながらに持病として抱える人もいる。これに対して辞めるのが権利だとか言い始めると、病気の人は権利によって辞意することが許されるのか?という気になる。

あとは病を抱える方は危機管理が出来ていないと言うことなのか?とも考えることが出来る。

生まれながらにして持病として抱えている方や病によって障がいと上手く共存していかなければならない方が世の中に入る。もちろん病によって好きなことが出来なくなった方や夢を断念しなくてはいけなくなった方も。

そういった方に対してこの言葉はあまりにも配慮に欠けると感じたし、仕事の内容によって病を理由に選ぶことが出来ないというのは日本国憲法にもある「職業選択の自由」の条文とも沿わない。ましてやノーマライゼーションの理念にも反する。

日本という国は、ノーマライゼーションという理念や憲法の元での社会を目指していたのではなかったのか。

 

また病のある人を推薦し任せたところが悪いといったような旨の発言も書かれていた。

ある意味において、押しつけたのであれば悪いのかも知れないが自ら立候補し、当選した人に任せるというプロセスだったと記憶しているこの件について、押しつけているわけではないし、病であっても薬でコントロールが出来ている状況で本人の意欲を汲んで任せるというプロセスを行うことは、ある意味においてノーマライゼーションの理念の沿うと思うし、そういった機会が国の代表者であっても行われた日本という国は、病や障がいのある方に可能性を示す事に繋がったと思うし、社会の成熟を感じさせてくれたと思っていた。

 

病によっては、急に倒れるのではなく徐々に進行してくるものもある。

今回は徐々に進行してきたからこそ次への準備を行った上で辞意という、むしろきちんとした事をされていると感じる。

病に煩うことや、辞することの責任は問われることではないと思う。

また、辞することで引き継ぎ相手がいないのであれば問われるべきだが、今回はその問題も無い。

 

自身の病を理由に辞めることを2度も選択せざる終えない立場になった方にあまりにも乱暴だと感じた。

政治的な信条や理念が違ったとしても、日本人の倫理観などにおいてこの点は、個人的には「道徳」のような部分と思っていただけに悲しく感じる。

 

 

昨年まで地方の労働団体の活動に関わるにあたって労働相談に対応する方々の姿勢を見ていると、その方々はこういった差別と戦っておられるような方々だった。

この発言をされた方を責めるつもりはないけれど、この方を推薦し支援する人達はこの言葉を発した人にどう感じるのかは配慮して頂きたいと思う。

 

政治的な信条や理念の対立で人を責めるというのは戦争に向かうような思考に感じる。

人としての優しさを失わないで欲しいと感じる発言でした。

 

 

 

 

珍しいテーマで少し考えたいことなので。

 

訪問業務をしている人だけでなく、通所リハビリなどの場面でも多くの人が感じると思うことだと思うのだが、多職種の方のリハビリテーションのイメージは機能訓練であると言うこと。

簡単に言うと関節可動域訓練や筋力訓練、歩行訓練等々が多い。

 

たしかに手段として、これらの方法を用いる方は多々いる。

しかし、リハビリテーションは本来は人間が失った権利を復権することにある。

例えば、歩く権利を失った方が再び歩く件を復権するためにどうするのか?ということ。

 

つまり関節可動域訓練や筋力訓練、歩行訓練をすることを意味してはいない。

歩く権利つまり、歩く能力を復権するための手段に機能訓練が存在すると考える方が素直な訳。

ただ、歩く権利というのも一部で、買い物に行く権利と考えると車椅子などの道具を使うことも視野に入れる必要がある。つまりは移動を行う権利と考えるとそういう事なんだけど。

 

考えて頂きたいのは、歩く権利というのは、何なのか?

何ができれば歩くことが出来るのか?

 

それが、料理でも一緒だし、ご飯を食べるのでも一緒。

つまりは、そこに訓練方法の決まりがあるわけでは無いと言うこと。

 

リハビリテーションを希望される方が居るときに、この点は明確にする必要がある。

実はリハビリを依頼する側にも同様の誤解がある場合がある。医師からのリハビリの指示の多くは訓練方法を指定しているからなんだけど、リハビリに関わる作業療法士や理学療法士はそれぞれの作業療法や理学療法を用いてという文言が存在するんだけど、そこに関節可動域訓練や筋力訓練は実は存在していない。

つまり、過去の遺物として存在している治療体系が現在の臨床でも指示として出されているだけでなく、社会のイメージとして定着していると言うことなんだと思う。

 

こう考えるとリハビリテーションと機能訓練は違うものなんだろうというのは少しイメージが出来るのかなと思っている。

リハビリのセラピストは、その人の生活や、その人の人生における権利というものの復権のために何をするのかと言うことを考える職業であり、機能訓練を行う人間とは違うと言うこと。

間違えないで欲しいのは機能訓練をしないわけではなく、機能訓練は手段の一部であると言うこと。ただその手段のためには目的を明確にしておく必要があるということ。

 

リハビリと機能訓練は違うんだけど、社会のイメージはずいぶんだと思う。

今のセラピストが昔のことしかしないなら、未来も変わらないんだと思う。

そしてそれは、今の不幸を未来の不幸に繋げる可能性もあると言うこと。

人間について分かることが増えてきたのに、臨床で行うことが変わらないのであれば不幸でしかない。

 

結局リハビリのセラピストが今から変わらなければ未来の姿も変わらないんだろうな。

なんと随分と離れていたな。と思いつつ再び思ったことを発信していこうと思います。

 

丁度、このブログから離れている間も色々と考えることがあった訳です。

実は訪問リハビリに出かけるようになって7年が経ちました。あえてこの表現にしているのは、私自身は訪問リハビリに配置されて7年なので、「出かけるようになって」という表現は違和感がある方もおられるかもしれません。実は1日のうちの1時間は外来1名の方のための時間にしていたため、自身が訪問リハビリに対してのイメージは家に伺って行うという感覚が強いのかもしれません。ただ今月からは私の1週間の予定表から「外来」の枠は1つも無しにしました。

よく介護保険領域では「利用者さん」という表現をする印象があります。病院だと「患者さん」でしょうか。どちらかというと個人的には私は「患者さん」と考えています。これには訪問リハビリにおいて自分が「利用して頂いている」という感覚を持たずに、一緒にできるための方法を見つけていくというpatientという立ち位置で関わることの方が適切だと考えているためです。

 

そこで考えなくてはいけないのがリハビリテーションは病という受難にあった人をどのように関わるのか?ということ。だと思います。

残念ながら患者の多くは自分がなぜ出来なくなったのかをわかっていません(病気をしたということを言っているわけではない)。何かが出来なくなった結果、その出来ていたことを行うことが出来なくなった。そのきっかけは病気によるものと考える方が辻褄が合うわけです。

 

何も考えずにただ漫然とリハビリを行なっていくとその思考を患者から奪ってしまい、患者は自ら考えることすら失ってしまいます。それはさらなるリハビリを必要としてしまうということをセラピストは気を付けなくてはいけないと思う。

数年ぶりに、ブログを覗いた。
この3年は僕にとって色々なことがあったなと。
大きいこととしては、臨床3年目でお会いし、以後ことある毎に声をかけていた先生が新天地に向かい。それを契機に遠ざかっていた門を叩いた。

その門は思っていた以上に近く、思っていた以上に優しかった。
時折、臨床を見学させて頂く。
時折、色々なことを話す。
時折、教えて頂き、それを次に向けて磨く。
時折、磨いた技術を確認して頂き、さらに次に向けて修正する。
何も特別なことじゃないのに、ただ大切なことをどうして忘れていたんだろう。と思った。


また、多くの知り合いが増え声をかけて頂く方が増えた。
それらは副産物だけど、とても大切なものになってきた。
だけど、どうしてこんな簡単なことが出来なかったのだろう。


今、目の前に大きな分かれ道がやってきた。
それは、目の前を変えるのか。それとも将来を変えるのか。
目の前を変えるためには将来を変えることが必要な事もあるかもしれない。


時に我々は身を削る。己を叩き鍛える。事が必要。
鉄を鋼に変えるように。
時には痛みを伴うかもしれない。
それでも、僕は自らが求めたものになることを選択したいと強う感じてきた。


たった3年だけど、この3年間はとても大きな3年間だった。
そして僕の目の前には大きな機会があると思う。
どうするか考えよう。本当に自分にとって必要なものは何か。


結果は行動を変えないと変わらない。
結果を変えるなら行動を変える。
行動を変えるなら今していることを見直そう。
今していることの本質を考えよう。


変えられなかった事は多くあるけれど先を見て進めていこう。
3年前大きな壁にぶつかった僕は今の僕になるとは思って居なかった気がする。ただ、この壁を破りたくて一生懸命だった。
今の僕はするだろうか。当時のような方法を。


チョット久しぶりに覗いたときに頭を冷やそうと思い立って書いたけど、かなり一人称記述だな。
まぁ、それはそれで良いだろう。
さて、三人称記述に戻ろう。あと2つ、講義資料を作らないとね。
なんだか、ずいぶんこのページから遠ざかっていたなと思います。
まぁ、個人的な記憶というか思考の記録ですので出来るだけ書くようにしておかないといけないんですけど。

さて、気付くと今年も残りわずか。
来年度には次の診療報酬改定が待っていますね。すでに中間報告の様なものは出てきていますけど。
結局、どうなっていくんでしょうかね。
当院でもそうですが、多くが診療を行うことに目が行っているのでしょうか。
しかし実際には患者さんが病気と闘うための環境に大きな変化が起ころうとしているという所はあまり目を向けられていないというのが問題なんだけど。
介護保険も来年度から徐々に次の改定に向けて言われているし。

医療と福祉のあり方。
経済的な側面から考えた関係、人間的な想いから見た側面、行政という側面、病院のスタッフという視点での側面。

治療者でありたいと常に思っているのに、こういったことも知らなければならないのも現実。
そして考えていけばいくほど思うのは、
リハビリのセラピストがもっと成長しないといけないんだろうなぁ。
がんばろう。
4月を迎えました。
今週は急遽出張が入っていたのですが、この週末の天候不良から中止を決断しました。
最近は、「廃用症候群」のリハビリが厳しくなってきていることもあります。
もっとも、厳しくなっているというのは、それなりに理由があることです。
しかしながら、多くの医療者は「維持的廃用のリハビリを認めない」や「国の医療費負担の削減」などを考えるのかな??

しかし、最近の傾向を見ているとおかしいことにも気付きます。
超早期からのリハビリ。これを推奨しているガイドライン。
ロボットは確かに部分的に取り替えれば機能するかもしれません(必ずではありませんが)。
人間は?
人間は感情があります。一定の病気の後、人間は動くことが困難です。ロボットではないのです。
命令にだけは従いません。
さて、そこで問題が発生します。

処方です。
多くの医療機関が定期的に社会保険庁という組織の監査を受けます。
これはとても良いシステムだと思います。しかし、その社会保険庁の業務の妥当性は誰が評価するのか。廃用症候群に対して、今までそれに関わる評価表の提出は義務づけられてきました。
僕もこれには賛成です。どんなことで廃用症候群となったのかを把握すると言うことでしょう。
しかし、僕の住んでいる地域では「リハビリの訓練についても記載する」ということが起こりました。
これは、立場を利用した不当な介入??ではないのか。リハビリ治療の専門で無い方が何を理由にそれらの書類の提出を義務づけたのか。国の制度にそのようなものがあるのであれば正式な通達が本来あり、どういう意図のものかを明確に提示します。
しかし、今回これはないという印象を受けています。

それと同時に、リハビリテーションセラピストは自らの治療が明確な目的を持って行っているのかを覚という作業をどのように思うのかと言うことが重要です。筋力がないから筋力訓練をする。歩けないから歩行訓練をする。
明確な答えでしょうか?
この理由は素人には分かりやすいでしょう。つまりは患者さんにとっては分かりやすいと言うこと。しかし、プロはそれでよいはずがありません。
なぜ歩きにくいのかを明確にする。病気との関係性は?心理的側面とは?神経科学的側面とは?など。多岐にわたります。

これらの関係を見ていると、リハビリテーションセラピストには自業自得と思えるし、こういった作業を行うように通達した社会保険庁などの評価も医療機関による査定という作業で評価されるべきだと思います。このシステムは明確に意図を提示する必要があるかと思います。

何よりも患者さんにとって不利益以外の何者でもないというのが実際です。患者さんに対して現場に必要だから作業を作っているとは思えないのです。審査をする人が分かりやすくするために作る書類に時間をかける分、現場の医療者は負担が増えるのです。
これが不都合というのであれば、自由診療にし介入しなくても良いのでは?と思います。
この理屈であればセラピストが個人の契約でリハビリを行えるように開業権を認める制度に改めてもらって良いかと思います。
その上で、医療保険なのか自由診療なのか。を患者さんに選ばせるべきです。

基本的に今回の書類提出自体は良いものだと思います。
ただ、現場のセラピストの一部で見るのは素人の方だから・・・。という認識もあります。
僕はこれは許せません。素人だろうと事務員だろうと自らの患者について訓練を明確にして書かないのであれば、そういった思考のセラピストは迷惑以外の何者でもない。

最近、学会等に所属しないとか研修会に参加しないセラピストが多いと聞きます。
組織として情報の共有が進むと、こういったスタッフは生まれます。自ら学ぼうとしなくても情報が入りますから。
そして学会も同時に考える必要があります。自らの学会の志向性を。

結局、こういったことを考えると自らのやるべき事は明確だし、やって行かなくてはいけないね。
周りの知人、友人に感謝。
僕も所属している山陰認知神経リハビリテーション勉強会なんですが、第50回目のオープン勉強会を開催します。
詳細はHPの方で、講義テーマ等が決まり次第アップされますが、とりあえずのところで以下の通りです。


山陰認知神経リハビリテーション勉強会より、第50回記念勉強会のお知らせです。

この度、勉強会発足10年目に入ると同時に、節目の第50回のオープン勉強会を開催するにあたり、学会会長の宮本省三先生(高知医療学院 学院長)、学会理事の池田耕治先生(熊本総合医療リハビリテーション学院)をお招きし、ご講義いただきます。また当勉強会から新たに学会監事に就任した江草典政(島根大学医学部付属病院)も講義いたします。さらに当勉強会の理事2名(小川昌、高梨悠一)を加えた5名での認知運動療法フォーラムも開催いたします。

なお、昼休憩には 「総会」 を開催いたします。会員の皆様方には可能な限りご出席頂きますよう、ご協力宜しくお願い致します。

また当日に会員の皆様には、ようやく完成いたしました勉強会誌「認知神経リハビリテーション 山陰 No3」をお渡しできる予定となっております。お楽しみ下さい。会員外の先生方にも販売いたしますので、この機会に是非ご購入いただければと思います。1冊千円となっております。

 日 時 :2013年4月13日(土)10:00~17:00(9:30受付開始)

 場 所 :松江テルサ4階 大会議室

      〒690-0003 松江市朝日町478-18(JR松江駅前)

      (http://www.sanbg.com/terrsa/access/index.html)

 参加費 :山陰認知神経リハビリテーション勉強会会員:2,000円、会員外:3,000円

 定 員 :100名程度

第50回目の勉強会を記念して勉強会終了後、懇親会を開催いたします。
場所:River View(50名程度を予定)*変更になる可能性有り

具体的な内容・時間・懇親会場については、現在調整中ですので、決まり次第追って皆様方にご連絡いたします。

勉強会参加希望の方は、件名を「第50回オープン勉強会」とし、下記のアドレスまで、

1.氏名
2.所属
3.職種
4.会員・非会員
5.懇親会参加の有無 を明記のうえご連絡をお願いします。



参加希望の締め切りは4月11日(木)としますので、お早目に申し込みください。
皆様のご参加を心よりお待ちしております。

事務局 sanin.ncr☆gmail.com(☆マークは@に変更して下さい)
ずいぶん前から疑問に思うことがある。

認知運動療法のセラピストは基本的に道具よりもそれを仲介として認知過程の活性化し脳の学習を促すことベースとしているので、道具や方法論だけで語ることが出来ない部分が多いわけです。ですから、見ただけで分かったつもりになるのは違いますし、受講したから分かったと言われるのも違うと思います。この点は他の治療法と明らかに異なります。
だからこそ、難しいのですが。

最近、一般的な作業療法と言われるものや理学療法と言われるものを行うセラピストはどうなんだろうかと思います。実際、学生時代に統合と解釈といったことや、考察を我々は行います。今、あの文章を読むと「ひどいなぁ」と思うよりも「あのときの僕はこれくらいのことしか考えられなかったのか」と感じますが・・・。しかし、最近の多くのセラピストはこれらのことを行うでしょうか。
要は、一人の患者さんについて幅を持って考えられるかどうか。ということです。

これについて感じた原因は詳しくは述べませんが、
どれだけバックグラウンドを考えるのか。患者さんが起こった変化の結果について述べることは可能ですが自分の身体内で起こっている変化を理解していることは困難と考えなければなりません。だからこそ、不整合のある使用方法が起こっている可能性があるということも考えているでしょうか。

実習での学生は確かに十分な知識はないでしょう。しかしセラピストもまた十分でしょうか。ありとあらゆる病気に対し現代の医療は未だに全てを解決できるだけ万能ではないのは事実です。
だからこそ、セラピストが一生懸命なのはあたりまえだと思うのです。そして、可能性を考える努力をしているのかと言うことなのです。
努力することは当たり前なのです。
出来ないままにしている。このことが問題だと思います。

このことを学生に気付かせ一緒に考えていく。
臨床のセラピストが教えることが出来るのはそういうことなのかもしれません。
最近、僕は実習の依頼が来るときに当院で!!と言う人は基本的に僕は受けないようにしています。
だからこそ、話してみて受けるかどうかを考えます。
そういう意味ではフォーマルな場だけではなく、懇親会で話すことは重要だなとつくづく感じますし、人の縁は重要です。

明日もまた思考を施行し、臨床に臨もう。