こんばんは、ナグです。
昨日は、「閑話休題」として、なぜ僕が8月から「情報」について書き始めたのか?ということをちょっと書かせてもらいました。
今日は、「情報」というものに関連して”正しさ”について、書いてみたいと思います。
一昨日の「疑いを味方につける、とはなにか?」では・・・
・私たちは”正解を出すこと”、”間違わないこと”を教育のなかで叩き込まれる
・本来の「科学的」な考え方のプロセスは、
「仮説」→「検証」→「結果」→「判断」という流れで、まず「正解ありき」ではない
・いわゆる「ジャッジしない」ということと、「判断する」ということは別物
・疑いを味方につける、ということは、
「まだ知らない何かがある」という可能性に対して自分自身の心を開くこと
ということをお話しました。
で、今日のお話の”正しさ”とは何か?ですが・・・。
”正しさ”とは、個人的にその人自身が「それが真実である」と認めているもののこと、です。
(ギリシャ神話
正義、法、掟の女神テミス・・・目隠しをしているところが意味深ですね。)
出来事や物事という、自分の外側で起こるさまざまな事象それ自体には、「正しい」「間違い」というものはなく、単に「そのことが起きた」という事実があるだけです。
そこに、一人一人の価値観や、「こうあることが望ましい」という概念がくっつくことによって、「正しい」「間違い」という判断が現れてくるのです。
「情報」を受け取る時、自分の”正しさ”に沿うものは受け取りやすいし、そうではないものはどうしても批判的な受け取り方になってしまいます。
批判的に受け取ることは自体は悪いことではないのですが、自分の”正しさ”を自分以外の誰かにも押し付けてしまうようになると、そこに葛藤や摩擦、軋轢(あつれき)が生まれます。
同じ出来事に遭遇しても、それに与える”意味”は人によって違います。
多くの人が誤解してしまっているのは、
目の前に起こるさまざまな現象そのものに「意味がある」という錯覚です。
自分が”正しい”と思っている意味を、(ここでの”正しい”は自分にとって望ましいという意味ではなく、自分が持っている信念に合致する、という意味で)出来事や物事に当てはめている、ということなのです。
人がそれぞれに、自分に対する信念として、どのようなものを持っているのか?で、
その人にとっての”正しさ”は違ってきます。
それぞれの”正しさ”には、「そうである」とその人が信じ、自分にとっての信念になるに至る背景があります。その背景、バックボーンが今のその人をそのように保っているわけですから、その部分をいきなり否定するような態度に出会うと、人はどうしても防衛反応を取ります。
(つまり、「わかってくれていない」と感じてしまう、ということですね。)
あなたが人に出会う時、あなたは「情報」に触れているのです。
さまざまな情報や事実の集合として、人は存在しています。
(こういった観点で、「人間」というものを観ることって普段はあまりないと思いますが・・・。)
例えば、初めてあった人に対して「自己紹介」をするときのことを考えてみてください。
そこで提示されるのは、自分についての「情報」ですよね?
何が好きか?嫌いか?どこで生まれたか?年齢は?住まいは?などなど・・・。
自分の”正しさ”は、いろいろな情報に触れるときの「フィルター」になってしまいます。
それは単なる「個人的な好み」というものから、「善悪の価値判断」まで、さまざまな範囲で
自分自身の情報の受け取り方に影響してきますし、それぞれの情報発信にも影響しています。
自分の”正しさ”を客観的に知っていること。
それはつまり、自分自身が自分をどういう存在だと、決めているのか?
また、自分が何を大切にして、何を必要のないものとして切り捨てているのか?
自分自身が持っている”正しさ”と、自分自身が望んでいること、欲していること、求めていることは
必ずしも一致しない、ということに気付くことは、あなたが”正しくある”ということよりも、
あなたが”しあわせである”ということ
へ近づいていくために、大切なことなのです。