四月一日(あ、この「四月一日」苗字だと「わたぬき」さんなんですってね。)に「世界の中心」という記事を書かせていただきました。
そのなかで、
> でも、もし、あなたが自分のことをダメだと思ってたり、嫌いだと感じていたり、
> 自分のことを顧みず、他の人にばかり気持ちを奪われていたとしたなら…。
>
> あなたの『世界の中心』には、喜びはないでしょう。
と、記しています。でね、もし、本当にあなたがそう思っていたり、周りの人のことばかり気になって、自分でもそれをなんとかしたいと思っていて、でもどうしたらいいかわからないし、どうにもできないのだったら、救われませんよね?
でも、安心してください。きちんと方法はあります。
そのためには、いろいろな『材料』が必要になるんですね。
料理をするにしても必要な食材を揃えて調理にかかります。パンを焼くには小麦粉が必要になりますし、カレーを作りたければ、カレーのルーが必要です。
『自分を変えたい』
というのであれば、「心や魂のこと」を学ぶ必要があります。
私たちは、『身体』を使っていろいろなことを体験しているのですが、「体験をしている」のは、本質的には「こころ」あるいは「たましい」ですよね。
(神様なんていない、という無神論者の方や、スピリチュアルに全く興味なく全否定の方でも、「自分の気持ち」があることは知っています。)
もし、あなたが食事にカレーを出されたときに、食べたくないとしたら、一旦カレーは下げてもらって、食べたいものを注文したり、あるいは自分で調理したりしますよね?
まあ、トッピングでごまかすこともできますが、それは仕方なしに自分が食べられるように手を加えただけであって、「食べたくないカレーを食べる」ということには変わりません。
少し話が逸れそうなので、タイトルに戻しますが、
『感情はどこから来るのか?』
心について考えたとき、自分の思いについて考えたとき、この「感情」を知ること、理解することは必須なんです。
言葉って、本当にあいまいで。
『私は○○だと思っています。』の「思う」。
これね、「思う」=「考えている(思考)」の場合と「思う」=「感じている(感情)」の場合がありますし、両方入り混じっていることもあります。これの区別が付けにくいのは、
「感情が思考(考え)を生み出し、その考えがまた次の感情を呼び起こす」
というサイクルがあるからです。そして、このサイクルは半ば自動的に動き始めて、継続します。止めることのできなくなってしまったサイクルは「思い込み」となって、あなたを縛り始めていくのです。
それを止める方法は、「感情」を観察することと、それがどこから来るのか?を知り、あなたにとって好ましくないサイクルが始まろうとしていることに気づくことが最初の鍵なのです。
そして、感情には「私が意識で認識できる」ものと、思考や感情的反応のパターンの前提になる『魂からの感情』があるのです。
昨今「自分にとって心地よいことをしましょう。」というテーマの話がブームのようですが、『私が意識で認識できる』部分の領域にとってだけ、心地の良いことをしていっても、魂から満たされることはありません。上っ面をちょっと小奇麗にしただけに過ぎないのです。
ツインソウルの関係において、“満たされない感じ”や“何かが引っかかる感じ”が続く、というのは「魂の領域」へ、あなたの意識がまだ到達していない。ということでもあるのです。
また、魂の学びは「体験的に学ぶ」しか方法はありません。全てを理解してから、行動に移す。ということはできないのです。なぜなら、知識として知ることはできても、自分の体と心と魂を通じて体験したことのみ、本当の意味で自分自身の血肉となるからです。