先日、“ 『流れ-エネルギーの道理-』 ”という記事を書いた。
よくスピリチュアル、というよりも「因果の法則」や「原因と結果の法則」とかで言われている、“あなたが放ったものが、あなたのもとへ帰ってくる”という話なんだけど。エドガー・ケイシーなんかはもう、しつこいくらいに、「汝が蒔いた種を刈り取らねばならない。」ということを言っているんだよね。
時間の流れが早くなった。これは、間違いない。と僕は実感しているのだけれど・・・。
最近の世の中を見るとね、「客が強すぎる。」というふうに僕は感じているんだよね。どこかね、商売をする人たちの誇り、というか、“提供する側のプライド“のようなものが希薄になったように感じているんです。
それも、仕方ないことだと思う。実際、「自分が店を切り盛りしている。」という人が少なくなったんだろうと思う。昭和の初期なんかは、「○○商店」というような、いわゆる“お店屋さん”がたくさんあった。夕食のおかずの材料を買いに行くにしても、八百屋さん、魚屋さん、お肉屋さん、と、いろいろな店を回るのが、当たり前だったし、それぞれのお店の店主はそれぞれに「一国一城の主」だったわけだ。
でも、近頃はそういったお店は地方ではまず生き残っていないだろうね。僕は東京に出てきて、都心というか、23区内に住むようになって、本当に思うんだけど、都内でもね、下町の方なんかはまだ、昔ながらの商店って、繁盛しているんだよ。人がいるから、ってのもあるけどね。
「客が強すぎる」ようになった原因は、それぞれの店が“城主不在”になったからだと思う。どの店も大手企業のフランチャイズやチェーン店のような感じで、店のスタッフたちも、言ってみれば“搾取される側“の人たちで、企業のトップのような人たちが従業員の“労働“というエネルギーを吸い取っているから、そんな風になるんだろうと思う。
ちょっと、前置きが長かったかな?
で、学校とかでもあるじゃない、『モンスターペアレンツ』とか、お店だったら『クレーマー』とか。
こういった人たちってね、これは僕の勝手な推測なんだけど、(そして、殆どの場合に当てはまると思うんだけど)、自分の仕事に対して、
『給料が少ない。』
って、ぼやいたり、自分の勤める会社の文句や不平不満だらけだと思うんだよね。
わかりにくいかもしれないから、もうちょっと説明するけど、こういった「モンスターペアレンツ」とか、「クレーマー」のような人って、
『対価以上のものを強引に要求する。』
という姿勢があるんだよ。“絶対に損をしてなるものか”という、もう極限までの強迫観念だよね。
その姿勢が「他の人たちから、必要以上に“奪う“ことになっている」んだよね。(それはお金でも時間でも、あるいは「気持ち」でも。あらゆるものに置き換えられる)
だからね、そういった人たちは、例えば自分の仕事などで、自分のエネルギー(労働力とか)を“搾取”されてしまうんだよ。職場でがんばっても報われないとか、いい感じで来ていた商談とかが、予期せぬトラブルで反故になったりとか・・・・。
そうそう、以前ね、こんな女の子に会った。
(僕は直接面識がない人で、その時限りだったけど、僕は非常に不愉快になった。)
ある知人が久しぶりに上京してきて、夕方のとある大きな神社に参拝に来ている。とたまたま知り、僕も偶然にも近くにいたので、電話で連絡を取って待ち合わせして、どこかで食事でも・・・ということになったんだ。
知人は、何人かの人たちと一緒に参拝していたらしく、結局、僕を含めて7~8人くらいになった。
で、どこか良いお店がないか、と歩くことしばし。
「ここにしよう」ということで、7~8人が座れるか、店の人に確認するために知人が先に入り、なんとか入れる。ということだったので、皆で順に店へと入っていった。
ところが、ひとりの女の子が入ろうとしない。知人がその子に聞いた。
「ほら、席あるから、入りなよ。」
その子は
『私、帰りの電車代しかないから・・・。」と。
その時、一緒にいた人たちは、「なんとかなるから」とか、言ったような気がするけど、よく覚えていない。
内心、“帰りの電車代しかないなら、帰ればいいじゃん。”と、僕は思った。(冷たいと思うかもしれないけどね。)
そして、店に入り、皆がそれぞれ、食べ物や飲み物を店員に注文していて、その子の注文を取るために店員が声をかけた。僕はその子の返事にも驚いたんだ。
『私、水だけでいいです。』
ひさしぶりに集まった(らしい)知り合い同士、僕はその知人以外はほとんど初対面の人ばかりだったから、みんなの様子を観察するように、あまり喋らなかった。
当然、他のみんなは、お酒を飲み、食事をし、という状態。
みんな、その「水しか飲まない」女の子に気を使うように、声をかけ、話題を振っていた。
『私、敏感すぎて、仕事とかできなくて。』
その子の話によると、「電車代しかない。」というのは、いま現時点の手持ち、ではなく、ほぼ「全財産」のようだった。明日どうやって食べたらいいか。みたいな事を言っていた。
そして、まわりがいろいろな話題になり、それぞれに話に花を咲かせていると、その子はだれかの話に入るわけでもなく、聞き役にまわるわけでもなく、携帯をいじり、半袖のシャツの袖口から、わきに手を突っ込んで、ボリボリ身体を掻いている。
どうみても、“敏感な人”の振る舞いじゃない。
ビールを頼んだ、ひとりの女性が、その子に声をかけた。自分のビールがテーブルに届けられたときに、
『少し飲む?』
と。
僕はその次の瞬間の彼女の言葉と行動に目を疑った。
「私、結構お酒強い方なんです。」
と、いいながら、当たり前のようにビールを飲む。
(おいおい、お前、水だけでよかったんじゃないか?)
知人もスピ系の仕事をしている人だったけど、“敏感過ぎると辛いよね。”とか、言ってるし。
(ちょっと、違うんじゃないか???)
と、思ったんだ。
その子はね、お金を一銭も払わないで、店の椅子を一つ使っている。ガラガラの店ならともかく、僕らが座れるように、ほかの客が移動したりしている店でだ。
手持ちのお金がなく、家に帰ればある、というのなら、友達に借りるのもひとつの手だろう。でも、そんなお金の余裕もないようだった。
人が頼んだビールを、当たり前のように「自分は酒が強い」と自慢げに飲む。
久しぶりに会った知人との会話もそこそこ、僕は食事だけで、帰った。
みんなはその後、カラオケに行こう。という感じだったが、その女の子もついて行ったようだった。
もう、1年以上前の話だけどね。
“手持ちのお金”ではなく、全財産が電車代。というなら、
「それなら、家に帰りな。そんでもって、どんなことでもいいから仕事さがしな。」
って、言ってやるのがその子のためだろうに。
下手な同情よりも、厳しい優しさこそ、愛だろう。
知らない、気づいていない、ということはある。
でも、「奪っている」ことには変わりがない。
それが「法則」というものだ。
エネルギーの法則には“例外”はない。
知らずに奪っているもの、こと、僕もあるだろうと思うし、そういうことをちょっとでも意識することって大切だと感じている。
先日、夕食時を少し過ぎたころ、まだお店もそれなりに客が入る時間帯だったか、ある定食屋に入った。
僕らの後、ひとりの女性が入ってきて、店員はこう声をかけた。
『カウンター席でもよろしいですか?』
スーツを着て、何やら“私仕事できます”的な雰囲気を醸し出しているその女性は、四人がけのテーブルを指差して、
「あの席はダメ?」
と。
少し言葉に詰まった店員は、仕方なしに、という感じで「どうぞ」と言った。
一人で四人がけのテーブルに陣取った彼女は、仕事の資料を広げ、スマホでメールを打ち始め、注文を聞きに来た店員をしばらく待たせた後に、食事を頼んだ。
(あの人、たぶん、仕事そんなにうまくいってないな。)
と、僕はそんなふうに思ったんだ。
“稼ぐ力ってのは、稼がせてあげる力”だ。
ガラガラのカフェなら、ゆっくりとコーヒーを飲みながら、読書「してあげる」のも、店にとってはプラスになることもある。というのも、だ~れも入っていないと、このカフェ、美味しくないのかな?って思うでしょ?何人か客が居ることで、後から来る人は意外に入りやすいものだから。
でもね、待つ人がいるくらいに混んできたら、さっそうと席を立ち、店員さんにさりげなく声をかけるくらいのことをしてもいいだろう。と、僕は思ったりする。
なんか、とりとめもない長文になってしまったけれど、本当に些細な日常の中で、知らずに奪っていたりするから、それって後で必ず帰ってくる。そう考えると、ちょっと怖いかもね。できるだけ、意識しておきたいな、と僕は思っているんだ。