カレンダー通りの休み希望は、保育園が土日祝日は閉園だからだと聞いていた。僕もそれを信じていた。だから、カレンダー通りのヤマンバの休みも、このご時世の会社の流れと半ば諦めて、渋々受け入れてきた。

犠牲にしてきたものの大きさも分かってる。
失ったものも、仕事の相棒がヤマンバでなければ手にすることが出来たものも分かってる。

でももう我慢の限界かも知れない。


土曜日は保育園が開園している事を知ったから。
知ってしまったから。
小さな役割の中で100パーセント演じる役者
大きな役割の中で100パーセント演じる役者
僕には少し重い役割でも、全力で応えたいとしている。


価値観の違いは痛い程よく分かっているから、それを全て否定するつもりはないが、少し都合良すぎはしないかい。

育児と家庭と財産とキャリア

価値観が違うからこそ、僕も言葉にしたい。
他人を巻き込んでまで守るべきは、そのすべてなのか?
どれかひとつだけでも譲れないのか。


男がどうの、女がどうのと論じるつもりはない。
だが、ひとつだけ、自分と他人については論じさせてほしい。

僕がヤマンバからみて全くのあかの他人であることを。
仕事柄土日は忙しい。そんな時に限ってお客様対応やクレーム対応も多い。

与えられた役割には、100パーセントの行動とそれ以上の結果で応えたいと考えている。
そして労働においてはそれに評価が下され対価が支払われると信じている。

ところでその評価は、役割に対する結果について下されるべきか、それとも単に結果のみに対して下されるべきか。


最近帰りが遅くなり、家族とまともに会話のない自分を感じる。
子供と一緒の時間もとれていない。
仕事帰りで疲れた中で子供の寝顔に満足できるわけもなく、また寝顔を撫でて仕事に出ても、気持ちは満たされるはずはない。


もうそろそろ限界なのかな…


評価はどのように下されるべきか。

9時5時土日休みのOLのようなワーキングマザーと、その穴埋めをしながら暗渠のように心の中に潜む蟠りを取り繕いながら過ごす自分。

もし、結果だけて評価が決まるならせめて気も紛れるが、役割と結果で評価が決まるなら、平等という名の不平等と激しい憤りを感じてしまう。


今日もまた、自分の役割を演じ切った疲れた体で子供の寝顔を見に帰るが、会社では結果に対してのみ評価を下してほしいと懇願しながらも、家庭では役割に対しての結果で評価をしてほしいと切願する自己矛盾に、音を立てて壊れて行く暗渠のような一縷の流れに任せる心を感じている。