今から40年~50年昔の、携帯電話など全く無く、固定電話すら裕福な家庭でなければ無かった時代には、今日の表題のような電報が遠方に住む子供の所に届いたものでした。先週の金曜日、早朝6時頃に枕もとの携帯電話が突然鳴り、寝ぼけまなこで電話を取ると、母からの電話でした。早朝の電話の内容は表題の電報文でした。眠気も何も吹き飛び、涙声の母から詳しく状況を聞くと、今年94歳になる父が3日前から動けなくなり、意識はあるがオシッコもウンチも垂れ流し、食事も摂らなくなったと言うことでした。約30年前に那須に山荘を建てて隠居した両親ですが、空気が良く、穏やかな山荘生活でストレスが無い老後生活が良かったのか、二人とも元気に長生きしてくれて、今年の正月に訪ねた時も、駅まで自分で車を運転して迎えに来てくれた父が、突然に具合が悪くなったとの知らせでした。とりあえず実家に急行し、入院を拒んで自宅にいる父を抱きかかえて車に乗せて、病院に連れて行き、医師の診察と点滴治療をして頂きました。医師の診断は高齢の上に、下痢と厳しい寒さで体力が落ちているので、栄養剤と下痢止めを点滴します、他には手の打ちようが無いとの事でした。父は意識はしっかりしているので、自分の最後を意識したのか、目を離すと、不要だと言って点滴の針を2回も自分で抜き取ってしまったりと大騒ぎでした。何とか点滴を済ませて自宅に連れて帰りました。
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両親の住む山荘は、かつての南那須町、今は町村合併で那須烏山市にあります。JR烏山線の大金駅が最寄り駅になります。JR烏山線は宝積寺(ほうしゃくじ)を起点に7つの駅があるローカル線で、7つの駅にはそれぞれ7福神が1つずつ祀られています。宝を積むお寺(宝積寺)なんて、いかにも縁起の良い名前ですよね。そして大金駅、ここの7福神は大黒様。この駅名も縁起が良い名前ですよね。上の写真のように駅員さん一人の小さな童話に出てくるような可愛い駅です。
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駅のホームには大黒様の謂れが書かれた看板があります。駅舎の隣に大黒様を祀った神社もあります。そんな田舎の山裾に山荘を建てて、のんびりと余生を送っている父から見れば、僕が毎月のように海外を飛び回り、あくせく働いているのが、可哀想だと見えるようです。

診療所の医師の、何しろご高齢ですからと言う言葉で、有効な打つ手が無いものと思い、それならばと、今まで毎日1粒飲ませていたレスベラトロールを一気に増やして、1日6粒、朝昼晩2粒ずつを、ぬるま湯に溶かして無理やり飲ませてみました。すると2日目頃から下痢が止まり、ベッドから自分で起きて、トイレに行くようになったではありませんか。それまで腰が抜けたように起きられなかった父が、自分で壁や柱につかまりながらですが歩いたのです。3日目、お天気が良く、ポカポカと暖かかったので、庭に連れ出して、杖を突かせて自分で歩かせてみたら、何と庭の芝生の上を歩いて往復できるようになりました。医師の点滴による栄養剤と下痢止めが効いたのか、レスベラトロールが、長寿遺伝子「サーチュイン遺伝子」を更に活性化させて、生き延びる方向に身体を活性化させたのか、原因は良く分からないのですが、とにかく危機は脱したようです。
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まだまだ那須の朝晩の冷え込みはきついのですが、父が歩く庭では、上の写真のように椿の蕾も膨らみだして、ちょっぴり赤い花びらが見えてきています。
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そして石楠花の蕾も大きく膨らんで、もう少しで春が来るよと知らせてくれていました。
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父のベッド脇にあった袋を開けてみたら、父がかつて大日本帝国陸軍の兵士として従軍した時に貰ったと言う勲章が2つ出てきました。「支那事変従軍記章」と書かれた箱には下の写真の勲章が、入っていました。
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そして、下の写真の「勲八等白桐葉章」と書かれた箱には、白銀の勲章が入っていました。
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それが下の写真です。激動の時代を生き抜き、多くの戦友が戦場で斃れ、友人ですら大半が物故してしまう歳まで生きた父にとっては、余り生きる事に未練が無いのかなとも思い、ベッドの脇で、この勲章にまつわる思い出話に話を向けてみました。父が語る激動の時代の話は、何度か聞いたことのあるものも有りましたが、初めて聞く話もあり、とても興味深いものでした。そんな話を、これからも息子に余すところ無く伝えるまでは、まだ死ねないねと言ったら、深くうなづいていました。
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お騒がせしましたが、どうやら父は危機を脱して、またもや生き延びたようです。まだまだ油断は出来ませんし、看病疲れで、母の具合も良くないようですから、また那須まで通う積りです。
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庭のサツキも蕾が大きく膨らみだして、那須の春ももう直ぐのようです。両親がこの歳になっても介護要らずで元気でいてくれる事に感謝です。