東京は、いよいよ夏の到来、暑い日が続いています。気になるのは、東電の電力供給量がもつのかどうか。企業も個人も様々な工夫で、節電に努めていますが、こう暑くてはついついクーラーのお世話になりたくなって、僕も昨夜、大阪出張から帰京して、余りの暑さに遂に部屋のクーラーのスィッチをいれてしまいました。さて僕のオフィスがある、東京は日本橋の人形町界隈、今日も下町情緒を求めて多くの人達で賑わっております。江戸時代は人形町とは町名ではなくて、通りの名前だったそうです。歌舞伎小屋の中村座、市村座がこの通りにあり、人形芝居の薩摩座や結城座もこの界隈にあって、たくさんの人形遣いが住む町だったそうです。正式に人形町と言う町名になったのは昭和8年(1933年)なんだそうですよ。僕はテレビや映画で見た横溝正史の「人形佐七捕物帳」で人形町と言う名前が印象に残っていました。まずは地下鉄の人形町駅を降りると直ぐ目に付くのが下の写真の、火の見櫓のモニュメント。江戸時代の町火消し「は組」の持ち場が人形町通り周辺の13町。享保7年の記録では「は組」の火消しは当時592人いたのだそうです。この櫓の近くによると、人形カラクリに合わせた江戸情緒たっぷりの木遣りが聞けますよ。
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その直ぐ横には、聖観音宗総本山浅草浅草寺の末寺になる人形町大観音寺に上がる山門があります。ちっちゃなお寺ですが、江戸33観音札所、第3番霊場と言う由緒有るお寺です。毎月17日がご本尊の「鉄造観世音菩薩」様の開扉日だそうですよ。ところでこの100kg超の鉄造のご本尊様が、あの3月11日の東日本大震災の直後、被害が無いかとお寺の方が、扉を開けたところ、これまで北東を向いていたのに、突然東を向く位置に向きを変えていらっしゃったのだそうです。観音様が多くの被災者のいる東を向いて、被災者のの皆さんの悲しみに向き合って下さったのだと、大層不思議がられているそうです。下の写真がその本堂の写真です。近くに来た時は是非寄ってみましょう。
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ビルの2階の屋上が本堂になっています。
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ところで、この大観音寺の階段の脇に、昔懐かしい手押しポンプの井戸がありまして、上の写真のように豊かな水が地下から汲み上げられて、今でも現役で活躍しています。東京のど真ん中でまだ地下から井戸水が汲み上げられている不思議な光景ですね。
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人形町界隈には、江戸時代から続くたくさんの老舗のお店があります。その1つ、「人形町玉ひで」は創業は宝暦10年(1760年)と言う、有名な軍鶏鍋屋。元々はお鷹匠仕事の店「玉鉄」として創業し、1860年頃から軍鶏鍋屋として評判を呼び、1892年(明治25年)に親子丼を始めて大人気。今でも下の写真のように、午前11時頃からお店の前は大行列。ちなみに行列して並ぶのが大嫌いな僕は、行列を横目に見ながら一度も入ったことはありません。
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玉ひでの親子丼は割り下で鶏肉のみを煮て、卵とじにしたもので、玉葱や三つ葉は入っていないのだそうです。
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この近辺は、かつて多くの大名屋敷が有ったのだそうです。かつての姫路藩主、酒井家のお屋敷が、西郷隆盛に下賜され、その西郷邸の跡地が、現在の日本橋小学校になっています。立派な鉄筋ビルの小学校ですよね。ケニーのブログ
その西郷邸の一角のビルは魚久と言う老舗料亭です。
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人形町で忘れてはいけないのが、1916年創業の「人形町柳屋」と言う「たい焼き」の老舗。たい焼き御三家と言うのが有るそうで、麻布十番の「浪花屋総本店」は1909年創業。四谷の「わかば」が1953年創業。この3店がたい焼き御三家だそうです。何とたい焼きには養殖物と天然物と有るそうで、尻尾の先まであんこがぎっしり詰まって、手焼きのものを天然物のたい焼きと言って、珍重しているのだそうです。たかがたい焼き、されどたい焼き、たい焼きの世界も奥が深いのですね。是非、人形町に来た時はお土産にどうぞ。
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そんな人形町界隈、値段の高い老舗料亭ばかりかと言うと、そこは庶民の街、上の写真は、元祖天ぷらそばを謳う、「六文そば」。どんな天ぷらをトッピングしても、値段は200円台。頑固そうで無口な親父が無愛想に出してくれる蕎麦が、結構いけるのです。懐が寂しい時の救世主。皆さんも是非一度試して見て下さい。

まだまだ、人形町界隈では紹介したいところがたくさん有りますから、追々ご紹介しましょうね。