寒い日が続き、北国では大雪で交通機関が麻痺したり、車が動けなくなって運転者が避難所に逃げ込んで一夜を過ごしたりと、地球温暖化なんて一体どこへ行ってしまったのかなと言うような今年の冬ですが、お元気でお過ごしですか。とは言え立春も過ぎた事だし、もう目の先に春が待っている事でしょうから、この寒さももう少しの辛抱でしょう。さて皆さんはペルーと言う国に行かれた事はありますか。南米大陸の西側にあり、北と北西がコロンビアとエクアドル、東はブラジル、南東と南はボリビアとチリ、と五カ国と国境を接し、西側は太平洋に面した国で、正式名称はペルー共和国と言う名前です。実は僕もまだ一度も行った事がありませんが、是非訪ねてみたいのが空中都市とも呼ばれるインカ帝国の都「マチュピチュ」です。最近大雨による洪水で、マチュピチュへの道路が陥没して、日本人を含む多くの観光客がマチュピチュに孤立してしまい、その救出騒動が大きく報道されていました。

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僕もついつい行って見たいものですから、マチュピチュの写真を2枚も紹介してしまいますが、こんな山の上にどうやってこんな都を築く事が出来たのか、興味しんしんです。
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ペルーと言えば紀元前1,000年頃より様々な古代文化が栄え、16世紀に至ってスペインに征服されて、植民地化されるまでは、インカ帝国の中心であった所です。漢字では「秘露」と表記するんだそうですよ。紀元600年頃には信仰と農業の繁栄を祈る為に描かれたと言われる地上絵で有名な「ナスカ文化」が盛んになります。でもこの地上絵は未だに謎の部分が多くて、多くの学者が様々な学説を唱えていて、中には宇宙人が地球に残した何かの信号だろうと言う説も有りますから、この地上絵も是非見に行きたいところですよね。
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ここに行くには、下の写真のような砂漠の中に直接着陸するような飛行場経由で行けるようです。
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スペインによって植民地化された後のペルーの歴史はとても悲惨なものです。金や銀の産出が多いので、スペイン人によって多くの鉱山が開発されて、そこで強制労働に従事させられた先住民の多くが、劣悪な環境で次々に病と栄養失調で倒れて、全盛期には1,600万人も有った人口が、18世紀末には108万人に急減してしまいました。下の写真はアンデスの先住民の写真です。
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近代になっても様々な政治変動が繰り返されて、政情の安定しない国でありましたが、1990年に熊本県出身のアルベルト・フジモリ氏が大統領に当選し、1980年代から台頭したゲリラ組織「センデロ・ルミノソ」の活動を抑えて、国情が安定化して、経済も大きく発展しました。フジモリ氏は日系人の国家元首としては世界初の大統領でしたが、その後様々な事件で2000年11月に失脚してしまいます。
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さて、そのフジモリ氏が大統領であった1996年12月17日に表題の日本大使公邸の人質占拠事件が発生します。僕はその当時フロリダのタンパの近くのクリアウォーター市に長期滞在をしていました。アメリカでもこの事件は大きく報道されて、連日テレビや新聞のトップニュースを飾りました。当時アメリカのメディアで報道されるニュースと、日本の新聞報道やテレビニュースで報道されるニュースに、かなりニュアンスの違いが有る事に違和感を感じて、両国の報道の論調を注意深く注目していたものですから、この事件はいつまでも忘れられない事件として記憶に残っています。同じ事件なのにどうしてこのように報道スタンスが違うのだろうと思いながら、日本のメディアしか見ない日本人は、海外の違う国のメディアがこの事件をどのように捉えているか知る事も無く、事件の収束と共に歴史のかなたに埋もれていってしまった事と思います。

この人質事件とは、在ペルーの日本大使公邸がペルーの反政府ゲリラ「トゥパク・アマル(MRTA)」の14人の武装コマンドによって襲撃されて、600人を超える人質とともに公邸が占拠された事件です。その日、日本大使公邸では600人以上のゲストを迎えて、天皇誕生日の祝賀パーティーが開かれていました。この事件は長引きます。人質が多すぎて、その管理にたった14人の襲撃部隊では手に負えず、次々と解放されて、最終的に解決まで大使公邸に拘禁された人質の数は70人であったと言われております。アメリカメディアの多くは、在ペルーの外国公館が襲撃されたのだから、ペルー政府は国の威信をかけて、直ちに武力で奪回すべしと言う論調が圧倒的でした。まさに「目には目を、歯に歯を」と言うアメリカ政府がこれまでテロと戦ってきた妥協を許さない姿勢そのものです。しかし日本の当時の首相橋本龍太郎氏の強い要請で、フジモリ大統領は強行突破が出来ずに、あくまでも話し合いによる平和解決の姿勢を崩せませんでした。しかし話し合いは全く進展せず、何とこの人質事件は年を越して、翌年の4月まで膠着状態が続いてしまいます。フロリダにいてアメリカのメディアの論調を読んでいると、日本政府の弱腰と、日本政府の多額の援助金に期待して日本政府の平和解決姿勢に反発できないフジモリ大統領に対する非難の論調が圧倒的でした。いくら日本政府からの強い要請であっても、自国の首都で起きたテロ事件に、断固たる対応を取れないフジモリ大統領の政治姿勢が、アメリカ人から見れば歯がゆくて仕方なかったのだろうと思います。4ヶ月以上続いたこの籠城事件で、人質とゲリラコマンドとの間に、ストックホルム症候群やリマ症候群と言われる奇妙な連帯感が生まれて、これも大きく報道されました。日本からも欧米各国からも多くの報道陣が現地取材に押し掛けて、一時それらの人々の大量消費が低迷するペルー経済を助けたとも言われました。ストックホルム症候群とはゲリラ側が人質側に同情して、仲良くなってしまう事、リマ症候群とは逆に人質側がゲリラ側の心情に共鳴して同情してしまう事。この事件では両方の現象が両者の間に生まれたと言われております。当時の日本大使青木盛久氏も当時のこのような現象の事を自著の中で話しておりました。

しかしフジモリ大統領は、心底では強行解決しかないと決心していたらしく、日々のたくさんの差し入れの中に、小型の無線機や、盗聴器を紛れ込ませて、人質になっていたペルー海軍の将官達の手元に届くような仕掛をし、一方で、大使公邸の地下に向けて7本の進入用の地下トンネルの掘削を、秘密裏に進めていました。そして運命の4月22日、ゲリラコマンドの内13人が1階にいて、2階の人質のところにはたった一人のゲリラしかいない事を無線と盗聴で確認した、政府の強襲部隊が、1階の床をトンネルから爆破して、一気に突入し、14人のゲリラ全員を射殺して、事件は急転直下解決してしまいます。日本政府は強行突入の事は、事前に一切知らされていなくて、寝耳に水の話であったと言われております。アメリカメディアはこのフジモリ大統領の果敢な決断をおおいに評価して、むしろ慎重すぎて遅かったと言う論調でした。日本のメディアは、事前に強行突入の了解が取られなかったと言う事で、日本政府とペルー政府の信頼関係に問題があったと言う論調が多かったように思いました。

いずれにしても、この事件の被害者はゲリラコマンド14名が死亡、人質側はペルー最高裁の判事が巻き添えで死亡、突入部隊の2名の士官がゲリラとの戦闘で死亡と言う、人質の人数の割には少ない死亡者でした。更にアメリカのメディアは、ゲリラ側の死亡者について詳しく報道していて、ゲリラの隊長は、首を十文字に切られて殺害されていて、ナンバー2のゲリラは首を切断されていた事、ゲリラの女性コマンドは、暴行された上に両手足を切断されていた事まで詳しく報道し、これらの殺害方法はかつてのインカ帝国時代の、反逆者への見せしめの処刑の方法と同じであると報じていました。日本のメディアには当時このような報道は全く無くて、人質の4ヶ月に渡る拘禁生活の苦労話の取材報道が殆どでした。そして後にリマ症候群として有名になったように、2階で人質の見張りをしていたゲリラコマンドは、政府軍部隊の突入を知っても、仲良くなっていた人質に向かって銃の引き金を引く事が出来なく、1人で政府軍部隊に向かって突撃してたちまち銃撃されて死亡したのだそうです。更に人質側で唯一死亡したペルー最高裁の判事は、フジモリ大統領の永年に渡る政敵で、どさくさに紛れて暗殺されたと言う情報が、アメリカメディアでは盛んに報道されていました。

そんな風に、同じ事件でも国が違えば、報道の中身も、報道の姿勢も全く違うものなんだなと言う事を、まさに教えてくれた事件でしたから、この事件は記憶に良く残っている事件でした。

では、また次のお話でお目に掛かりましょう。