ベルリンの壁と言っても、20年の歳月を経た今では、分らない若者が増えてしまって、何の事なのか若干の説明が必要かも知れませんね。1945年に第2次世界大戦が終戦となり、ヒットラー率いるドイツが敗戦しました。ドイツの首都ベルリンは米英仏ソのドイツと戦った各国によって占領されたのですが、その後ドイツはソ連等の東欧社会主義国がバックアップの東ドイツと、米英仏の自由主義諸国のバックアップする西ドイツの二つの国に分断されてしまいます。ベルリン市はその東ドイツの真っ只中に有るのですが、西側諸国は自分たちの占領していたベルリン市の一部を東ドイツに渡さずに、西ドイツの管理下に置きました。そこで西ベルリン市は「赤い海に浮かぶ自由の島」と呼ばれ、自由主義陣営の象徴的な都市となりましたが、地形的には周囲をぐるりと東ドイツに囲まれた、孤島のような存在でした。やがて、自由を求める東ドイツ市民が西ベルリンへ次々と越境亡命する事件が増えた為に、東ドイツ政府は西ベルリンをぐるりと高い壁で囲んでしまい、越境が物理的に出来ないようにしてしまいます。しかしそれでも自由を求めて壁を越えようとする市民は後を絶たず、越境を試みて警備兵に射殺された市民は192名、逮捕された市民は3,000名を超えたそうです。しかし何とか警備の目をかいくぐり脱出に成功した市民も5,000名を超えています。

そんなベルリンの壁が崩壊し、やがて東西ドイツの統一に至る流れが生まれたのが1989年の東欧革命です。
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この写真は崩壊前のベルリンの壁の写真です。
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上の写真は、1963年6月に西ベルリンを訪れたアメリカのケネディー大統領が壁の前で有名な演説を行った時の写真です。「私はベルリン市民である。全ての自由を求める人間は、どこに住んでいようとベルリン市民である」と壁の前で語りかけて、今でも歴史的な名演説として語り継がれています。この壁の総延長は155kmもあり、1948年には西へ脱出を図る市民が後を絶たないのに業を煮やした東ドイツ政府は、西ベルリンへの輸送路を全て遮断して西ベルリン封鎖を敢行します。これに対して西側諸国は大量の輸送機を動員して、西ベルリン市民に食料、燃料、日常生活物資を輸送する対抗手段で、西ドイツを支援します。

そんな歴史を持つベルリンの壁が崩壊したのが、1989年11月10日の事でした。

下の写真が壁の崩壊を喜んで、ブランデンブルグ門の前の壁に集まったベルリン市民の写真です。
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その当時、僕は仕事でフランスのパリに長期滞在をしていて、東欧革命からベルリンの壁崩壊、ルーマニアのチャウシェスク政権の崩壊までつぶさにテレビ報道を通じて見ていました。この東欧革命を大きく後押ししたのが、テレビの力です。テレビ電波には国境は関係ありませんから、東欧諸国の市民は西側から流れるニュース映像から情報を取りながら、自らの動きを考える事が出来たのです。
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壁がクレーンで撤去されるシーンの映像は、パリでテレビを見ていた僕にも衝撃的な映像でした。
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ベルリンの壁崩壊と言う、1989年の東欧革命の象徴的な出来事に繋がるきっかけは、1985年にソ連の初代大統領に就任したゴルバチョフ大統領が推し進めたペレストロイカと呼ばれた改革開放運動でした。1989年12月3日、アメリカのブッシュ(パパ)大統領と、ソ連のゴルバチョフ大統領のマルタ島会談で東西冷戦の終結を確認するマルタ宣言が発表されて、東欧革命は一気に加速しました。その前の1989年8月にハンガリーで有名な「ヨーロッパピクニック計画」と言う事件が起こり、全世界にテレビ中継されて、世界中の注目を集めます。当時の東ドイツでは全ての市民の国外旅行は許可制で、西側諸国への旅行は殆ど許可されません。東側諸国への旅行は比較的容易に許可が降りる事に目をつけた東ドイツ市民が、ハンガリーへの旅行許可を取って、ハンガリーに続々と集結しました。そしてハンガリーからオーストリアに移動して、オーストリア国境から西ドイツに越境亡命しようと言う計画が実行されたのです。この計画で1,000に人以上の東ドイツ市民が西ドイツへの越境亡命に成功します。その越境亡命の成功がテレビで大きく報道されたのを見た東ドイツ市民が続々とハンガリーに移動して、越境亡命を試みます。一時ハンガリーとオーストリアには東ドイツ市民の難民キャンプの様相を呈して、オーストリアと西ドイツの国境は完全に開放せざるを得なくなります。ソ連のゴルバチョフはこれを黙認し、東ドイツ政府の軍隊派遣の要請も断ったばかりか、ハンガリーとオーストリアに充満して、食料も燃料も持たない東ドイツ市民に軍が臨時の給油所を設置して、燃料や食料の供給をしたと報道されました。その流れを受けて隣国ルーマニアで市民革命が勃発し、軍隊も市民の味方をしてチャウシェスク大統領を追い込みます。上の写真はルーマニア国軍と市民が合体してチャウシェスク大統領に退陣を迫る映像ですが、これらの映像もテレビを通じて全世界に報道されました。
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ルーマニアのチャウシェスク大統領は国防大臣を射殺して抵抗しますが、自由を求める市民とそれに同調する国軍兵士の圧倒的な圧力の前で次第に追い詰められ、世界中のマスコミが逐一その様子を報道していました。
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大統領官邸に続々と押し掛ける市民と国軍によって追い詰められたチャウシェスク大統領は、下の写真のように屋上からヘリコプターで脱出しますが、遂に逮捕され、エレナ夫人と共に死刑判決を受けて、1989年12月25日のクリスマスに公開銃殺刑に処されてしまい、その衝撃的な銃殺シーンまで全てテレビで全世界に流されました。
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ルーマニアはドナウ川でブルガリアと国境を分け、黒海に面した美しい国ですが、その国で起きた事件は、国々が陸地で国境を接するヨーロッパでは、つい隣で起きた出来事として、連日テレビで映像が流されて、大変な臨場感をもって、市民の目に入ってきていました。僕もパリにいて、次々と起こる事件に、テレビに釘付けになっていて、仕事どころでは有りませんでした。そんな事件も歴史のかなたに遠ざかり、昨年の12月はベルリンの壁崩壊から20周年を迎えて式典が催うされて、その映像を感慨深く見ました。

僕の体験した歴史のひとコマのお話でした。

ではまた次のお話を楽しみにしてください。