今月も、またベトナムに行ってきました。今回はホーチミン市に入り、ベトナム国防省の経済局のVu大佐と一緒に車で2時間かけてブンタウ市の海軍基地に行き、ベトナム海軍の基地司令官と面談をし、実務の打合せをしてきました。会議は全て英語で進行しますが、ベトナム側の参加士官の事を考えてベトナム語を英語にする、英語の通訳を1人同行させました。

さて仕事の話はさておき、12月といえばベトナムでもクリスマスシーズンで、市内のどこもかしこもクリスマスのイルミネーションで飾り立てられていて、何となく行きかう市民もうきうきと楽しそうでした。ホテルのロビーには大きなクリスマスツリーが立てられていて、サンタに扮したホテルマンがパーティーに集まった子供たちと記念写真を撮っていました。
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ベトナムのハノイ市でホテルに飾られたクリスマスツリーの写真です。クリスマスは世界中で、キリスト教の記念日と言うよりも、何か世界共通のお祭りのようなものに進化してしまっているような気がします。

さてそんなスケジュールの中で、帰国する最終日の午後のスケジュールが全くフリーになりました。少し皆さんと一緒にホーチミン市内の観光をしてみましょう。

ホーチミン市はかつての南ベトナムの首都、その当時は「サイゴン市」と呼ばれていました。1975年4月30日に北ベトナム解放軍とベトコンが旧サイゴン市を解放して、米軍と南ベトナム首脳がサイゴン市を脱出して洋上の米軍空母に逃げて、ベトナム戦争は終結しました。その時のニュース映像に度々登場したのが、南ベトナムの大統領官邸です。旧サイゴン市内での市街戦はたったの2日間で終わりました。北ベトナム解放軍とベトコンの猛攻に、浮き足立った南ベトナム軍と米軍は、たったの2日でサイゴンを明け渡してしまいました。
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その南ベトナムの大統領官邸は、今ではホーチミン市の観光名所の1つになり、内部は全て見ることが出来ます。ホーチミン市に行く機会が有ったら、是非訪ねてみてください。
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官邸内の巨大な応接室には、ベトナム開放の父「ホーチミン」氏の胸像が置かれています。
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官邸の屋上には、大統領と家族が脱出の時に使った米軍ヘリが当時そのままの姿で展示されています。地下に入ると複雑な迷路のように区切られた、作戦室と非常時の大統領の執務室が再現されています。ヘリの写真の下側に移っている赤い丸印は北ベトナム空軍の爆撃で爆弾が落とされた跡だそうです。
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官邸の三階にある通常の大統領執務室の窓からみたサイゴン大通の写真です。この大通りを北ベトナム解放軍の戦車が侵攻してきて、ついに官邸の正門を破り、官邸内に侵入したのだそうです。ヘリで脱出する前にそれを見た大統領達は恐ろしかったでしょうね。
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その時に官邸の正門に突入した瞬間の、北ベトナム解放軍の戦車の写真が、上の写真ですが、貴重な映像ですよね。
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その時の戦車兵は今では英雄として称えられて、この兵士達の写真はあちこちで見かけます。
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その時に突入した2台の戦車は、そのまま大統領官邸の庭に展示されています。上の写真はその内の1台で中国製の戦車です。
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そしてもう1台は当時のソビエト製の戦車です。当時北ベトナムを支援していた中国とソビエト(現在のロシア)が兵器と弾薬を大量に送り込み、ベトナム戦争は共産圏を代表するソビエトと中国、そして自由主義陣営を代表するアメリカ、イギリス、オーストラリア、韓国(これらの国々は実際に軍隊をベトナムに派遣していました)等との代理戦争とも呼ばれていました。
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サイゴン市陥落の前日、当時のサイゴン市のタンソンニュット空港は、北ベトナム解放軍の猛攻で炎上し、逃げ惑う米軍兵士の姿は印象的でした。

そんなベトナムの現在は多民族国家、全部で54の民族が国を構成しています。お隣の中国も同様に多民族国家で56の民族で構成されている国ですが、単一民族の日本からみるとすごい数ですよね。54民族それぞれの写真と説明が、民族衣装姿で紹介されていました。それが下のの写真ですが、全てを紹介は出来ませんから、最後の54番目の写真だけ見てください。
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さて旧大統領官邸の周辺は、旧サイゴン市の中心地区、近くにはフランス植民地時代に建てられた歴史的な建造物が多く残されています。下の写真は1850年代に建てられた、サンタマリア教会です。全ての建築資材をフランスから船で運んで建てたそうです。赤レンガの重厚な建物です。
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さらにその隣に建つのが、同じ時代に建てられた中央郵便局です。下の写真でお分かりのように、郵便局にしておくのはもったいないような歴史建造物ですが、現在も現役の郵便局として使われています。
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この中央郵便局の中に入ると、下の写真のように大きなドーム天井が印象的です。観光名所として多くの外国人が中で記念写真を撮っていました。
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さてそんな平和な風景の直ぐ近くに、戦争記念館が建っていて、ベトナム戦争当時の生々しい展示物を見ることが出来ます。いかにもアメリカ人と言う観光客が、かつての米軍の兵器や、戦争の写真に見入っていました。彼らはこの記念館で何を感じるのでしょうか。
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北ベトナム解放軍やベトコンと戦った米軍の戦車の実物です。
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米軍の軍用ヘリも修復されて展示されていますし、
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米軍のジェット戦闘機もそのまま展示されています。

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これらのヘリが当時戦っていた写真です。ベトナム戦争で使われた戦費は第二次世界大戦で使われた戦費のおよそ2倍、そして使われた爆弾や砲弾は第二次世界大戦のおよそ6倍と言われております。とてつもないお金と兵器が投入された大戦争だったのですね。
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そして米軍兵士の戦死者、行方不明者はおよそ5万人、多くの貴重な命も犠牲になりました。
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さて、この写真に写っている美少女は誰でしょう。ベトコンは兵器弾薬や食料は全て、人力で輸送していました。ホーチミン市郊外には、ベトコンが掘ったトンネルも観光名所として開放されていますが、その総延長は250kmもあって、狭いところは幅が1mも無くて、天井に頭がつかえてしまうようなトンネルですが、そんなトンネルや間道を使って輸送部隊が活躍をしました。写真の少女は当時16歳のベトコンの兵士で、輸送部隊の1人です。60kgほどの物資を担いで運んでいた時の写真です。胸に自動小銃を吊るしていますから、たった16歳の少女でも戦闘に参加していたことが良く分る印象的な写真です。
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さてそんな悲惨なベトナム戦争の貴重な映像を数々撮影していたのが、有名な日本人カメラマンの澤田さんです。その澤田カメラマンの記者証が展示されていました。多くのベトナム人が、ジャーナリストとして勇敢に戦場で撮影を続け、世界にベトナム戦争の悲惨さを伝え、ついに戦場に倒れた澤田カメラマンを称えています。
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その澤田カメラマンが撮影した有名な写真がこの写真です。米軍の空爆に逃げ惑うベトナム人母子と子供たち。いつの時代でも戦争の被害者は弱い女子供たち、そんな姿を次々とカメラに収めて、発信し続けたのが澤田カメラマンでした。
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この写真も、米軍のナパーム弾の爆撃で衣服も焼け溶けて、大火傷を負って裸で逃げ惑う幼い少女。この写真は世界中に衝撃を与えました。人間の犯す戦争と言う犯罪の被害者が、いつも幼い子供たちに集中し、多くの抵抗する術すら持たない子供たちを犠牲にして来たのが良く分る写真です。この少女もそして上の写真の母子も、今は健在で、現在の元気な姿の写真が展示されていたのが唯一の救いでした。
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さて最後に紹介するのが日本では有名なぺトちゃんドクちゃんです。米軍がベトコンの輸送ルートを壊滅させる為に空中散布した枯葉剤の影響で、身体が繋がって生まれてしまった双子の兄弟です。日本で身体の分離手術を受けて、二人はやっとそれぞれの人生を生きられるようになったのですが、その後ドクちゃんは亡くなり、ぺトちゃんのみが元気で生きておられます。現在では結婚して赤ちゃんも生まれ、日本の医師団の協力に感謝しながら、戦争の悲惨さを訴える仕事に従事しているそうです。

さて、今日はホーチミン市観光の案内と言いながら、ベトナム戦争の話が多くなってしまいましたが、戦争の悲惨さを知らない世代が増えてきていますから、このような写真や解説も何かの役に立つのではないでしょうか。

ではまた次の話をお楽しみに。