韓国の釜山(Busan)は皆さん良くご存知ですよね。有名な韓国のチョーヨンピルの歌謡曲「釜山港に帰れ」も良く日本のカラオケで歌われますから、お聞きになった方も多いはずです。正式には大韓民国の南東部に位置し、何よりも九州北部、山口県等とは隣と言っても良いほど近い街、日本に最も近い韓国の都市です。福岡市からはたった200kmの距離です。それほど近い都市ですから、日本との交流の歴史は古くて、昔から常に行き来のあった外国都市の1つです。大昔は伽耶の国と呼ばれ、その後は新羅に併合され、対日防衛の拠点とされました。更に李氏朝鮮の時代になると慶尚左道として対日貿易の拠点となり、15世紀には倭館が設置されて、そこは鎖国時代に入ると、唯一の日本人が公式に海外居住できる場所でもありました。豊臣秀吉による朝鮮侵略も、ここが秀吉軍の侵略拠点となっていました。1910年から1945年までは、日本による日韓併合で日本の統治下におかれていました。そして第二次大戦終了後、1950年には朝鮮戦争が勃発し、北朝鮮が韓国に侵攻して、ソウルの陥落後、1953年まで釜山は大韓民国の臨時首都ともなっています。
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海上から見た釜山広域市の写真ですが、朝鮮戦争後は、発展を続けて、近代的なビルの林立する大都市に発展しました。
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水上から見る夜景もとてもきれいな街です。
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対日防衛の拠点として、写真のように長大な山城も築かれていました。
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街に散策に出れば、あちこちに市場があって、様々な商品を屋台で販売していますから、ウィンドウショッピングならぬ、屋台ショッピングが楽しめます。
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韓国料理には特に欠かせない、様々な香辛料を売っている店があちこちにあり、お土産にするのも楽しいかもしれません。
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ついでに手ごろな店を見つけて、韓国料理に舌鼓を打つのも楽しい思い出になるでしょう。唐辛子が苦手で辛いものに弱い人は気を付けて下さい。しばらくは口の中が痺れて味が分からなくなるほど辛いものもありますから、要注意ですよ。

そんな釜山に仕事で滞在した事があります。まだ日本からの直行便やフェリーも無かった頃で、ソウルから鉄道で釜山に入り、帰りはソウルまで国内線の飛行機に乗りました。夜行便で、確か夜の9時すぎのフライトだったと思います。使用機は中型のプロペラ機で、ほぼ満席でした。離陸して20分ぐらいした時でした。突然にドカンと大音響がして、機体がビリビリと震えて、急降下と言うか、一気に高度が下がりました。機内の照明も消えてしまい真っ暗闇になり、頭上の荷物棚が衝撃で開いてしまって、バラバラと荷物が落下して乗客の頭に落ちてきます。機内は総パニック状態で、僕も一瞬、ミサイルか何かで攻撃されて、墜落するんだと覚悟しました。またもや「ケニー、釜山上空に死す」かとあきらめかけた時に、機長からアナウンスがあって、「機体に落雷があって、電気系統に不具合が出ているが、操縦には差し支えない。、このままソウルまで飛行を継続する。機内の照明は復旧しないかも知れないが、現在のところ飛行には問題が無いから落ち着くように。更に荷物等の落下で怪我をした人がいたら、直ぐに客室乗務員に知らせて応急処置を受けるように」と韓国語と英語の両方で知らせてくれました。最初の韓国語のアナウンスはチンプンカンプンで全く分かりませんし、機内は騒然としていて、泣き出す女性や子供の泣き声で、良く聞き取れませんでしたが、次の英語のアナウンスの時には、乗客も少し落ち着いていて、聞き取る事が出来て、一安心しましたが、やはり無事に着陸するまでは不安で、普段は無神論者の僕も必死にあちこちの神様、仏様、終いにはアラーの神様、キリスト様にまでお願いをしました。お願いがあちこちの神様にちゃんと届いたのか、幸いに無事にソウルに着くことが出来ました。「あちこちの神様、ゴメンなさい。勝手な時に勝手なお願いばかりして」と、後でおおいに反省をしました。

では又、次の話をお楽しみに。でも来週はまたもやベトナムのホーチミン市とブンタウ市に出張が入ってしまいました。帰国してからまたベトナムのご報告をしましょう。