今日の東京は時折小雨の降る、肌寒い天気です。昨夜はお世話になっているベトナム大使館のグエン公使が本国へ帰任されるので、その送別会が大使館で開かれて、ベトナム料理をご馳走になってきました。日本側の招待客は政財界の錚々たるメンバーがたくさんおられました。しかしベトナムはさすが社会主義の国で、大勢の来賓の中で主賓のご挨拶でトップをきって話されたのは日本共産党の志井さんでした。

さて、昨日はパリのモンマルトルの丘のお話をしました。パリと言えば誰もがあこがれるヨーロッパの大都市、花の都、芸術の都と様々な形容詞をつけて呼ばれる美しい街です。私も大好きな街の1つですから、私のブログの表紙の写真はシャンゼリゼ通りから凱旋門をみた写真になっています。


ケニーのブログ

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しかし、意外とパリと言う都市の詳しい情報を知っている人は少ないような気がします。良く知られているのは、パリはルーヴル美術館のある1区から、時計回りにカタツムリのようにぐるりと20区まであると言う事でしょうか。

環状高速道路の内側でおよそ87平方km、東京の山手線の内側が63平方km、ニューヨークのマンハッタンが59平方kmですから、意外と広い面積を持っています。人口は200万人を超え、パリ生まれの男性はパリジャン、女性はパリジェンヌと呼ばれる事は有名ですよね。最近はかつての植民地のアフリカやインドシナ半島から移住してきた人が増えて、様々な人種が住む国際都市になっています。

フランス人はパリを何でも世界一にするのが好きで、例えばシャンゼリゼ通りは「世界で一番美しい通り」と言ったり、世界の文化の中心はパリであると思い込んでいます。しかし、そんな「パリ」と言う都市名の語源は、遠く古代ローマ時代に、ローマ人がこの地に住む先住民であったケルト系の部族の人達をパリシイ(parisii)と呼んだのが始まりで、その意味は「田舎者、乱暴者」と言う言葉で、これが語源になっているのですから皮肉なものですね。


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5世紀頃にはフランク王国の首都になっていますが、10世紀の西フランク王国の断絶後に、フランス王国として正式にパリを首都に決めました。11世紀になると神学を中心とするパリ大学が作られ、これがヨーロッパ最古の大学と言われております。この頃からセーヌ川の左岸が大学の街、学生の街となり、右岸が商人の街と言われるようになり、現代に続いています。

17世紀になるとルイ14世がベルサイユ宮殿をパリの郊外に築き、政治の中心はベルサイユに移ってしまいます。もっとも歴代のフランス王はほとんどパリに居住せず、ロワール渓谷沿いに城を持って、そこに居住しているケースが多いのです。

その後ルイ16世の時代、彼はブルボン家とハプスブルグ家の和解の為に、オーストリア女帝マリアテレジアの娘、マリーアントワネットと結婚しますが、1789年7月14日にフランス革命が起きて、その妃のマリーアントワネットと共に、ギロチンで斬首刑にされてしまいます。この時の死刑判決は、死刑賛成が361票、死刑反対が執行猶予を含めて360票で、わずか1票の差で、死刑が決まってしまったそうです。この革命記念日の7月14日が、今ではパリ祭と呼ばれ、様々な催しが行われる華やかな祭日となっております。

ヨーロッパの中心になるパリは、過去様々な戦乱に見舞われています。古くは9世紀にヴァイキングの襲撃に会い、お金を払って引き上げてもらったり、晋仏戦争ではプロイセン軍に包囲されたり、第1次大戦ではドイツ軍にパリ市内目前まで迫られたりしました。そして第2次大戦ではとうとう1940年6月14日にナチスドイツ軍にパリを無血占領されてしまい、フランスは降伏してしまいます。降伏後もドゴール将軍率いる自由フランス軍がレジスタンス活動を続けて、ナチスドイツ軍を悩ませます。そしてかの有名なノルマンディー上陸作戦で、フランスに侵攻した連合国軍と自由フランス軍は、上陸後2ヵ月半で1944年8月にパリを奪還し、ナチスドイツ軍を追い払います。この時のナチスドイツ軍の司令官が、ヒットラーからのパリを放棄する前に、市街地を破壊してしまえと言う命令に逆らって、パリを無傷で返還した行為は、多くのフランス国民から喜ばれ、この将軍は戦後パリの名誉市民の称号を与えられたそうです。

そんな永い歴史を持つパリ、そのような歴史のエピソードを知って、観光をすれば少し楽しみが増えるかもしれません。