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MITUYAのブログ

私は絵を描く人です。この頃、身近なことについて
ブログを書いています。絵の事は作品が溜まったら、
書きたいと思っています。
旅先の写真や身近な生活の中で、気になる事があると、
書いて行きたいと思います。
ゆったり更新してますので、見てください。

 私はスケッチブックを持ち歩くのは好きな風景を見ると記憶を残す
のに描く事が一番であった。
 私は大学の時に写真が好きな先生と親しく成り写真について先生か
ら色々と指導をして頂き、その先生が新しいカメラを買う事になった
とカメラ店を経営する店の息子から聞いてカメラが欲しくなった。
 その息子は写真家に成ろうと努力をしていた山の仲間だった。
 私はそのカメラを安く譲ってもらい、そのカメラを携えて上高地に息子
と入山した。写真家の卵に風景画を撮るイロハを教えて貰ったが、大学
の先生から教えて頂いた事と変わらなかった。
 現在はアマチュアカメラマンが立派なカメラを持って台頭している。
私の同級生が日本でも認められた写真家として通用しているが、彼の

言によると写真家は写真をを撮るチャンスだけだと言う。
   誰が撮っても同じモチーフであっても時間によって当たる太陽光線が違う

       
 私が写真を撮る事で学んだことは絵と違い写真は自然を其のまま写
すので太陽光の
を見る事だと学んだが絵画の世界では光線は意識し

ないで光が必要な画家はモチーフに応じた方向から自由に考える事が
出来ると聞いた。

   快晴の雲のない青空でも写すモノによって色彩のバランスが写真には必要
    
 私が写した写真を並べても何処が良いのか悪いのかが分からない。
私が普段の旅行に持って歩くデジタルカメラは1万円程度で買える安物
の小型カメラである。高級なカメラは画素数が違うのと焦点深度など
の違いでカメラの操作が難しく成るので面倒なだけである。
 私は高級カメラ(デジタル)の講習を受けていないので分からない事
ばかりである。私の娘がプロのカメラマンまがいの仕事をしていたの
で娘が使っていたカメラを家に置いて行ったが殆ど使っていない。
 私が使ていない理由は設定が難しいのと重たいからである。カメラ
の先生について撮影会に参加している高齢者の多くがカメラの使い方
を教えて貰っているようにしか思えないのは私のひがみなのだろうか。

   快晴の秋に黒部ダムを見に行った時にデジタルカメラでダムと大観峰等で撮った
       
 私が初めてカメラで写真を撮ったのは10歳の頃におまけのポイント券
を集めて小型のカメラを手に入れて何枚か撮ってカメラ店で現像をして
貰った記憶がある。整式には教師に成って写真部の顧問になった時、
暗室で焼き付けの勉強をした事だと思う。当時はまだモノクロの作品
なので焼き付け時の工夫で面白くなるので、毎日夜中に一人で暗室に
入って朝まで現像の勉強をした記憶がある。
 私が現像をした写真を20~30枚は印刷をしたと思うが思い出になる
写真だけ額に入れて残した数枚が残っていた。写真も50年以上経過し
ていると所々黄色く成っていた。それは恐らく現像時の水洗いの不足と
乾燥時の乾燥時間の問題だったように思っている。

   私が学校の暗室で夜中に焼き付けた雪の剱岳から冬の立山連山を撮った
  
 同じ冬季の春、友人が北海道の利尻島に登りに行った。私は誘われ
たが卒業をして勤務した学校の新学期が始まっていて休めなかった。
 私は利尻島に行くお金が無かったのも理由の一つだったが、利尻島
の気象状況は春で有っても吹雪くので少し自信が無かったので断った。
 彼は天気にも恵まれて登頂に成功をしたそうだ。彼は次の年には一
人でアイガー北壁に挑戦をしたが失敗した。1964年には高田光政氏が
日本人の初登攀と言う事で新聞に大々的に掲載されて話題になった。
 高田光政は渡部恒明とパートナーで登攀を試みたがあと300mで頂上
と言う高所で渡辺恒明が墜死した事は世間で話題になっていない。
 この事は新田次郎氏の「アイガー北壁」という小説の中で扱われてい
るので少しは世間でも知った人が増えたのではないかと思う。?

   私が利尻山に登れなかったのを可哀そうに思ったか利尻山の写真をくれた
  
 彼は万一単独でアイガー北壁に挑戦して成功していると新聞に大きく

扱われたと思う。彼の言によるとアイガー北壁の岩がツルツルで単独で
の登攀は上部に行くほど登れなく成ったので登攀を諦めたと言う。
 

 私が初めて油絵の具を使った60年前には絵具の混ぜ方や溶き油など
知らないと後に絵に変色やひび割れと剥離が起ると言う問題点などは
経験者に教えて貰わないと描けないと言う雰囲気があった。
 現在は油絵や絵を描くのに指導者がいなくても描いている。中には
独学やグループで自由に絵を描く人が増えていると言われている。
 絵具の成分が科学的になり混色やひび割れの問題も殆ど無く描き方
の本も増えて指導者やグループも沢山あって昔より簡単に成った。
 高級デジカメを買った人達は昔の私のように不安な気持ちがカメラ
の指導者を求めているように思えて仕方がないのである。


 私は山が好きだが、海景も好きでよく海に行ってスケッチをした。
   スケッチには海の色より遠くにある岬を描く時にスケールの大きさを感じた
  
 海のスケッチは砂地の適当な場所で描く事になるのであるが、適当
な椅子の代用になる高さの台座を探すのに時間を取られてしまう事が
多い。水彩を描きに行った時は水彩用具だけなのでイーゼルがあれば
もっと楽に描けると思う時がよくあった。

  淡路の下田海岸でスケッチをした時は5月だったので暑かったと記憶している
  
 冬の海岸は寒いと想われがちだが風が無くて太陽が当たっていると暑い
ぐらいである。 

  神戸の塩屋海岸で防波堤、テトラポット、砂地に上げられたボートを描いた
  
 塩屋に行ったのは2月の晴れた日だったが、風も無く太陽が照って
いた日だったので上着を脱いで寝転んで描いたのを覚えている。
 最初は簡単なスケッチで描く予定だったのだが、人影も無かったの
で一眠りした。起きて時間を掛けてデッサンをして薄く色を付けた。
 私はデッサンをしながら草原で寝るのは高校の時草地でよく寝転ん
だら寝てしまう事がよく有り、絵を描く楽しみの一つだったのかも?

 私は高校の時からクロッキー帳を持って歩くようにしていた。
水彩画も視野に入れて歩くように成ってからはスケッチブックと
水彩絵の具を携えて出掛けるようにした。
 私は日本製の安い厚手の用紙を探したが日本製ではコットン紙
のスケッチブックが安くて良かった。後に他のメーカーでコクヨの
厚い画紙のスケッチブックを出して要ることを知った。
 コットン紙は紙の表面の凹凸が気になり少し描きにくかった。

  神戸にスケッチに行って停泊中の船を描いたが紙が薄くて描き難かった
    
 神戸港の埠頭では船が沢山停船していたが、描けるような位置
に泊まって居なくて見たままにしか描けない私には描けなかった。
絵具も紙が水を吸い難いと色が混ざるように思った。
 東灘の水滴美術館で東洋の美術品展があった。東洋美術に関し
ては何も知らなかったので勉強のために出掛けた。

 この時期は美術館でも奈良の社寺でも簡単に水彩画を描いてい
ても注意をされることは無かった。現在の京都・奈良の社寺でも
学芸員に申し出をするとスケッチはさせてくれるが水彩を描くの
は難しくなている。
 私が18歳の時に法隆寺に描きに行った頃は百済観音もケースに
も入らないで近くで見られてスケッチをした記憶がある。
 現在は宝仏殿?に入りケースで離れてしか拝めない。
 私が10代の時のスケッチは技術的に未熟だが描く機会(物)があ
れば全て描きたいと考えてい期でもあった。
 鉛筆デッサンは気楽に描けるので沢山描いていると見る力が伸
びるように感じた。力が付く感じがしていたが伸びなかった。
 しかし、描く力が付くのは問題なく描いていて楽しかった時。

  デッサンは見た物をすぐに描く事で不透明水彩画でも写実を願っていた
   

 赤穂御崎では丘の上に赤い屋根の建物が見えたので少し丁寧に描いて見た

 20代の頃に描いた諏訪山の古い洋館に比べると上達をしているのかな?

    
 私が20代になると教師として勤務をしていたので気持ちの中で
は生徒にセガマレルせてもいい作品を描いて置きたいと言う
気持と教師として多様な表現技術を身に付けたいと言う気持が生
れていたので色々な描き方で描く気持が出て来た。

  筆でデッサンをすると素早く描けて、色画用紙は塗る時間が少なくてよい

  

   日本画を描いている高校の教師と時々スケッチに出掛けたが、
私は鉛筆で下描きをして一枚(点)描いている間に彼は三枚も描い
ておられたので驚いてしまった。それからは枚数を増やしたいと
思う場所に行くと筆ペンでデッサンをして着彩する事が増えた。
 土台になる用紙は色の違う10色を一つに纏めた安い綴りが売っ
ていたのでそれを5束買って持って歩く事を時々した。
 私は風景を見た時に色を大切にして色紙の色を選んだ。

  
 色々な紙と画材を使う事で表現の範囲が広がるが一つの画材で
描く方が絵としては深く追求が出来るので勤務3年で転勤をした
機会に次第に油彩で表現をする機会が増えてしまった。

 描きたくなるモチーフが見つかると水彩は手際よく早く描けるので
素描と同じように短時間で色を付けて描く事ができる。
 20代の初めの頃だが、日生から船で直ぐ行ける大多府島には遺跡が
沢山あると美術の先生から教えて頂いていたので、行って調べたいと
出掛けた。歴史があると聞いていたが国鉄の日生駅は小さく昼ご飯を
食べさせてくれそうな店も見当たら無かった。
 すぐ近くの小さい船着き場にも小屋があって食堂では無かった。
 私は大多府島にも食べる処が無いと思ったので小屋の前に山のよう
に積んであった「シャコ」を一山買って食べる処が無ければ昼食代わ
り食べようと思って連絡船に乗った。 
 大多府島は江戸時代の船着き場の跡の石組みが海辺に残っていて、
興味を覚えたがそれ以外は頭に殆ど残っていない。
 大多府島をブラブラして時々お腹が空くと「シャコ」を食べたように
思うが知らないうちに25~30匹の「シャコ」は食べたと思う。

  「シャコ」を少なく並べると如何にも高級な感じの食べ物に見えるのに驚く

   
 私は家で「シャコ」を沢山買って昼ご飯の代わりにした話をしてい
ると父親が「シャコ」を売る時代に成ったのか?と言って驚いた。
 昔(広島県向島)では土に埋めて田の肥やにしたので驚いていた。
 私が最初に勤めた定時制夜間高校の授業が終わり、帰りに寄ってい
た赤のれんの店でお酒を注文するとよくシャコの数匹を「つまみ」に
出してくれたが、驚くほど安い値段だったと思う。
 時々「せこ蟹」も出しててくれたと思うが同じように安い値段だった。
「せこ蟹」は松葉ガニの雌で収穫できる期間は11月~1月の産卵が無
い僅か2ヶ月だけの収穫期間で蟹として食べる処が無いので山積みで
売られていたので、当然、安価だったと思う。

  「せこ蟹」も茹でて赤のれんで出されると高級な蟹に見えて美味しく感じられた
  
 最近はせこ蟹も高級食材の仲間入りをして随分高価に成ったと聞く。

 水彩絵の具に慣れるとデッサンの上に薄く絵具をのせるだけで具象
的な表現が出来る。

  ウズラの剥製とランプを並べたモチーフに薄く色を付けるだけで面白い
  
 私は前にも言っていたことがあるが、水彩は油彩と違って使い方が
簡単だがそれだけに良いと感じさせてくれる作品を描くのは難しい。
「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」とは射撃が下手でも数多く打ってい
るうちにまぐれで命中することもある。意味である。
 私の絵も多く描く中には良い作品が出来るのでは無いかと思いなが
ら手当たり次第に描きたくなったモチーフを描いた時期があった。

   果物は買ったばかりの「葡萄」を描くのは初めてであったが何とか描いた
  
 果物も新鮮な間に食べるのが良いのか、若干熟すのを待つのが良い
のかで随分味に違いがある事はよく知られている。
 果物の収穫する時期と味が最もおいしくなる時期を知る事も面白い。

   短時間で描く必要がある野菜を絵にする人はいないと思いながら描いた

  

 アスパラを描いて見ると意外に面白いと思った。野菜でよく描いたの
はジャガイモやナンキンなどが在るがそれは時間を掛けてゆっくりと
描く勉強が出来るからである。青物野菜は短時間で萎れたりしてしま

うので水彩で素早く描く方が良いと思っている。
   時間を掛けて干し魚を描いても良いが水彩で描くと素早く描けるのが良い
      
 煮干しなどを勉強のために描く事はあったが買った日に描く方が味
が良い事は食べると良く分かるので時々買ってすぐに描く事が多い。

 私は西洋画(油絵)を50年は描いていたが水彩画はもっと長くて70年
間は描いて来たと思う。
 私は水彩画を長く描いて来たので、水彩絵の具についてはいろいろ
な使い方(描き方)をして目的に応じた表現が出来る事を少しは知った。
 一番長くしがみ付いているのが水彩絵の具で、写実的に描く事が小
さい頃からの夢だったかも知れない。私は技術的には描けなかった。
 油絵の具を使う事に成ってからは油絵の方が時間が掛かっても写実
には表現が出来る事が理解できるようになったので、写実的に描く時
は油絵具で描くように成ってしまった。

  10代の頃に諏訪山公園に描きに行って、無人の洋館を写実的に描いた

           

  20代の時の時加古川にスケッチに行った時、取水口は少し写実的に描けた
   


 水彩画はその前の下描きにしたり油絵の下描きをするためにする為
のデッサンをして楽しむことをよくした。

  大王崎に描きに行った時に水彩のスケッチ(8F)を持って行って写生をした
  
 家に帰ってから(10F)のキャンバスに油彩絵の具で描いて見たが、
油彩画の作品は風景の現場で描いていないので水彩画の作品と記憶を
頼りにして描いたので描いていても余り絵を描く時の楽しさを感じて
絵を描けなかったと思う。

  家で油彩で描くと、その作品は具象的に描く心算でも絵として面白くならなかった
   
 
 水彩画を描く事はモチーフそれぞれの形体の勉強と質感などの表現
も勉強ができる。果物を単体で描くと短時間で勉強が出来るのも良い。

  リンゴは品種によって大きさと色が違う。私は品種の名前を知りたいと思った
     

  竹のザルに私の好きな果物を3種類を置いて水彩絵具を使って描いてみた  

  
 絵の作品らしくする為には幾つかのモチーフの組み合わせが作品に
 静物画が絵画の作品として世間で認知されたのが1600年前後からだ
と言われているが、古代のポンペイの壁画に描かれているので古い時
代にも描かれていたが額に入れられて作品として扱われ独立した絵画
らしく成ったのは印象派以降の事のように思う。
 画家が独立した仕事人になる勉強の最初は静物画を描く事が多い。

       

 上高地は穂高を目指す山人には必ず通る所であるがスケッチの為に
行く人は少ない。今日では上高地に行く人の多くが観光客だと言う。
 私は20代の後半に明神池の近くにある、イワナの養殖場がこの夏で
閉鎖されると聞いた。この夏を最後に人を泊める事もしないと聞いた。
 早速、養殖場の人に連絡を取ると8月〇日だと泊まれるのでその日
に来れば泊まっても良いと言われた。食事は焼きイワナは用意できる
と言うのでご飯とみそ汁を追加してお願いをした。
 当日は嘉門次小屋に寄っていたので薄暗く成りかけていた。小屋に
はランプが二台あるだけで、徳沢ロッジに比べると人もいないし他に
何もない静寂の空間だった。私は眠れないので夜に外に出ると夜空に
は今まで見た事がない多くの星が光っていたので驚いた。

  明神岳に近づいて絵が描ける山容を探したが画きたく思う処は見つからなかった

    

   

 上高地に入る為のトンネルを出て最初に眼に入るのが焼岳と大正池
である。私が60年前に大正池を見た時は池には直立した枝ぶりが目立
つ樹々が乱立していたことを覚えている。
 焼岳はもっと赤味を帯びて居たように思ったが余り記憶に残ってい
ない。ただ、私は始めて見る大正池の風景に感動はしたと思う。
 私が初めて上高地に入ったのが涸沢でキャンプを張って合宿をする
為にキスリングに沢山の荷物を入れて担いでいたので、ゆっくり休ん

で見る事すら出来なかった。
 大正池は強く記憶にに残っているが、最近見た大正池は池が浅くな
ったのと枯れた樹木が無くなったので何か寂しい。

  小さいスケッチブックを観ていた時に焼岳をスケッチした作品が見つかった
  
 大正橋からの前穂は以前に驚くほどとして魅力的であった。

私が60年前に何度か渡ったと思うが、重たいキスリングを背負って

いたので落ち着いて見た記憶が殆どない。
  最近は橋の近くから前穂を望める双眼鏡が設置されているので観光客が見ていた
    
大正橋付近は観光客が増えたせいか、野生の猿が水辺でウロウロして
いたが山で見かけたことが無いヤマ鳩まで見かける事が出来た。

  野生の猿やヤマ鳩は私が写真を写す為に近づいても逃げようとしないようだ
    
 私が以前泊めてもらったっ事があるヤマメの養殖場の様子を見たく
なり、嘉門次小屋にも寄ってみた。嘉門次小屋は観光地のように成り、
外から見える座敷には人が沢山座って何かを食して居られた。
 私は嫌気を抱きながら小屋の周りの池を回って早々に引き上げた。
 私の目的地はヤマメの養殖場を探したが何処に在ったかの形跡を探
したが古い事なので分からなくなっていた。


 私は雪に覆われた白一色の景色も好きだが、新緑の緑の世界にも惹
かれてしまう。

  以前に植樹されたのかも知れないが同じようなコナラの樹木の森が出来ていた
  
 上の作品は依頼されて多少装飾的に整理した横長の緑色を主体的に

協調した作品である。

  上記の作品を描いた基礎の現場で描いた油絵の作品である

  
 私は春休みを利用してスケッチに出掛けた事が多い。春は山などに
霞や霧が漂って事も多い。晴れて居る時は暖かいのでノンビリと天気
の回復を待っていても苦痛には感じない事が多い。

   春の風景は霞のせいか風景全体がボンヤリと霞んでいるので水彩の表現がよい
  
 春の景色は画面を緑色が占めるので私が苦手な緑色が綺麗に出せる
方法を考えるには油彩絵の具では強くなりすぎるので水彩絵の具だと
水分で適当に色を伸ばしたりボヤカスことが出来るので水彩絵具の方
が表現の幅があり雰囲気を出すのに容易だと知る事が出来た。

  信州の山の周囲は緑色なので余程うまく表現しないと綺麗な作品にならない
                   
 赤倉や栂池には初夏に行く事がよくあるが高度がある為かも知れな
いが新緑の緑が美しい事が多い。