かもさんの山歩き -2ページ目

かもさんの山歩き

毎週末、山を歩いてスケッチしてます。
漫画も描きます。

今日のスケッチ。

 

高尾山4号路といろはの森の分岐をいろはの森コースから。

 

 

 

高尾山の正確な標高は599.3メートル。

 

関東山地の東端に当たり多摩川水系と相模川水系の分水嶺となっている笹尾根の東端に位置することで、東西両方向への展望が開けている。

 

私が最近よく歩いている山と標高は

筑波山  877m、大山(神奈川) 1,252m      

御岳山  929m    陣馬山  855m。

しかし、山歩きは山頂の標高より、登山口から山頂までの標高差が問題だ。

 

高尾山の場合、ケーブルカーを使わなければ、どのコースでもだいたい400メートル前後。

それ以外にも、山道は登り一辺倒ではなくアップダウンがあり、登っては下り、又登るというのもあるから累積標高差もある。

 

当然アップダウンが続くときつい。

 

それと傾斜が急だとやはりきつい。

 

高尾山は、どのコースでも山頂直下が急傾斜で階段が続くが、そこにいたるまでは、緩い登りである。

筑波山は一般的な登山ルートでは、筑波山神社側からの登山で約400~500mで高尾山と同じくらいだが、短距離で急登が続くため意外にきつい。

 

登山地図の登りと下りの歩行時間を見て、下りの時間に比べて登りの時間が長いと、たいていきついアップダウンがあると覚悟する。

 

最近アップダウンできついと思った低山、角研山(つのとぎやま)経由の本社ヶ丸標高1630m。

その時のスケッチ。

 

何度も登っているのに、もう無理だと思った日光の男体山、2484m標高差1200m。

 

この山はアップダウンはないが、標高差より、急傾斜が続くのがきつい。

でも、男体山には、今夏再挑戦するつもりだ。

明るいうちに下山できないだろうから、用心のために、スケッチ禁止と下山後の宿をとっておくことにする。

今日の高尾山は、いろはの森からの往復。 


いろはの森と4号線の分岐をスケッチ。

明日完成させるる。






 今日はいつもより登山者が多かったが、カメラをかかえてスミレの写真を撮る人が多かったからだろう。


 グループできた人達には、花に詳しい人が花の説明をしていた。


 少し歩けば、立ちどまって、花を探す。



 そういう趣味があれば、山歩きももっと楽しくなる。


 私も一時期、ガールフレンドのランちゃんから花の名を覚えようとしたが、もともとそれほど興味がないのと、記憶力の減退ですぐに花の名を忘れてしまう。 


スマホを花にかざせば、花の名を教えてくれたアプリが作動しなくなった。


 それだけではなく、そのアプリは私の絵をスキャンしてくるたのだが、そのアプリにも入れなくなった。


 画像を保存しようとしたら、何回もアカウントを要求されて送ると、今度はセキュリティのために、今番号をメールに送ったから、その番号を入力しろという。

入力したら、セキュリティ用のメールアドレスを送れという。

送ると、そのメールはアカウントと関連付けされているから、別のアドレスを送れという。

えっ?
なに?
振り出しに戻り、何回もそれを繰り返す。


 わけが分からないので、別のアプリをインストール。 


 その新しいアプリで絵をスキャンした。


 たぶん、私は課金されないお試しでアプリをインストールしたから、お試し期間が終わって、アプリを買わなければならないのだと私は理解した。 



 金がかかるのなら、写メで十分。


 花は写メで撮って、後でネットの画像で花の名をさがす。


 新しくダウンロードしたスキャンのアプリも、半年はお試しで無料で
使える。



 しかし、年末に八ヶ岳を歩いてからは、今年は高尾山しか歩いていない。


 来月は、高尾山系ではあるが、別な山を歩こう。 


 そして、徐々に歩行時間を長くしていく。

無理はしないが、無理をしすぎないと、ヤワになる。


 歳とると、その加減が難しい。



今日のはがき絵。

有名な報道写真、イヌワシと少女。

 

昨日鎌倉の天園ハイキングコースのことを書いた。

 

天園コースから外れたところから「公暁悲劇の道」があるはずだが、入り口が分からなかった。

 

1219年(建保7年)正月27日、鶴岡八幡宮では、源実朝の右大臣拝賀式が行われた。

 

 夜になり式を終えた実朝が石段の上にさしかかると、大イチョウの陰に隠れていた鶴岡八幡宮寺別当の公暁(二代将軍頼家の嫡男で三代将軍実朝の甥)が、「親の仇はかく討つぞ」と襲いかかり、実朝を殺害。

そして逃げ惑う公卿らと境内に突入してきた武士達を尻目に姿を消した。

 

 実朝の首を取った公暁は、後見人の備中阿闍梨の雪ノ下北谷の家に行き、食事の間も実朝の首を放さなかったという。

 

 そして、公暁の乳母子弥源太を三浦義村邸に遣わし、

 

 「今、将軍の席が空いた。

 

 次は自分が将軍となる順番だから、 早く方策を考えよ」

 

 と指示。

 

 しかし、義村は「すぐに屋敷に来る」よう伝える一方で、北条義時と連絡をとり、義時から公暁を討つように命じられている。

 

公暁は逃げる途中で「悲劇の道」で殺害される。

 

この事件は、北条義時による黒幕説や三浦義村の関与、後鳥羽上皇の影など様々な謎に包まれている。

 

実朝を除こうとした「黒幕」によって実朝が父(頼家)の敵であると吹き込まれたためだとする説がある。

 

実朝死後に鎌倉の実権を握った北条氏が最も利益を得たため、その黒幕が北条氏だったという陰謀説が絶えない。

 

 

鎌倉幕府政権最大のミステリーだが、公暁個人が野心家で実朝の跡目としての将軍就任を狙ったととする見解もあり、近年では黒幕説を否定して公暁単独犯行説を取る研究者が多いそうだ。  

 

 

源実朝は文人将軍であり、藤原定家に師事した優れた歌人だった。

 

万葉調の力強さと新古今調の繊細さを併せ持ち、『金槐和歌集』に約700首を遺した。

 

孤高の将軍の苦悩や自然への深い洞察を詠んだ歌は、近代の歌人・斎藤茂吉らにも高く評価されている。

 

 

「大海の 磯もとどろに よする浪 われて砕けて 裂けて散るかも」

 

戦後には、吉本隆明が〈実朝的なもの〉を「暗い詩心ともいうべきものに帰せられる」とし、

 

 

「くれなゐの ちしほのまふり 山の端に 日の入るときの 空にぞありける」

 

を「この種の絶品を生涯のうちに一首でももっている歌人は、歴史のなかでも数えるほどしかない」と激賞している。

ちしほ」は何度も染めること。

 「まふり」は「まふりで」の略で、布を染料に浸して振り出して染めた色の意。

 

 

岩にむす 苔のみどりの 深き色を いく千世までと 誰か染めけむ

 

はがき絵、もう一枚。

チャツボミゴケ公園。

今日の動画。