昨日みたいな記事をアップすると、書きたいことがたくさん湧いてきます。

カウンセリングの場や本から学んだ
・子供のころのことをほとんど覚えていないということはどういうことか。
・家庭での食事風景を覚えていないということはどういうことか。
・発達障害についても思うこと若干。

ハッピーカムカムを見ていて、あるセリフで号泣したのはなぜか。

布団の中で『声を殺して泣』いていたときはどんな感じだったのか。

記事にコメントを頂いて(初回の返信は書いたんだけど、アップできず)、その時に気づいたこと

とか。

そうそう、それに、カウンセリングはいったん終了したのだけれど、なぜそうしたのかなど。


というようなことですが、
今回はコメントを頂いて気づいたことについてつらつら書いてみます。


みれいさんのコメント、心に響くこと多く。
初回の私の返信コメントがアップできなかったのは字数が多すぎたからか?とも思うほどで。

その中で「そんな人生だっただけ」という言葉もインパクトがありました。
この言葉には「起こることが起こっただけ」という言葉に通ずる
潔さとでもいうようなものを感じます。
すげ~よ。みれいちゃん!

確かに私も思う「そんな人生だっただけ」。
ああ、でもそう言い切れているとは、まだ思えないかなぁ~。


ある意味波瀾万丈で、幼い時の体験としては厳しいものだったけど
( 「よく生き延びて来ましたね」と複数人から言われた...。
  でも、本人は人生はそんなもんだと思って生きていた)

今、振り返ると「そんな人生だっただけ」。

あれ? 書いてて気づいたけど、
ってことはいつの時点からでも、
振り返れば「人生はそんなもん」
いや、いまも「そんな人生を」生きているのか。
・・・ なんか面白い。メモメモ。



そんな人生を経て、
その子ども時代の体験を、落ち着いて振り返られるようになった今
一つ掘り起こしてみたいことが目についた。

昔、野口整体の竹居昌子先生の講座に通っていた頃
べったりとはしゃがむことができなかった私の姿をみた先生に
「何を恐れているの?」と声をかけられたことがあった。

『声を押し殺して泣く』のは、
自分の中に湧き
表現を求めている「悲しみ」「怒り」という感情を
(表現すると怒られるので)
すべての力を使って、内側に押し込めていく行為だったな。と思う。

それがしゃがめないという身体に表れているのか?



心の面からみると
その時に十全に表現されなかった感情は
同じような出来事をきっかけに暴発することがあるけれど、

十全に表現されず、身体に押し込められた感情はどんな作用を及ぼすのだろうか?

それって「トラウマと身体の関係」ってことなのだろうか?

探ってみたいテーマとなりました。


今日もこんなところで。
読んでくださってありがとう♡



* 竹居昌子先生は2014年1月8日午後8時頃に逝去されました。享年83歳。
   謹んで故人のご冥福をお祈り申し上げます。