自分の考えを主張しようとするとき。自分なりの切り口でコメントしたいと思うとき。


そんなとき、「自分は○○主義だ」と立ち位置を決めると、コメントしたり、考えを述べる時の軸を作ることができる。


で、自分は一体、何主義者だろうか。行動の基軸となっているものは何だろう。いつも、面倒くさいとか、いやだな、とか言っているので遁世主義、厭世主義、そんなところか。すべてを冷めてみている。ある意味、現実主義者。ニヒリストという言葉もあるな。冷徹主義…。


なんだか、そんな主義者のコメントなんか、冷めていて、斜に構えた感じを与えて、嫌われるんだろうな。「遁世主義者による恋愛観」…誰も聞きたくないだろう。「ニヒリストが見る地域経済」…夢も希望もなさそうだ。


まあ結局、自分の感じたことを正直に述べればいいわけであって。無理に「○○主義」という枠をはめてしまうと、かえって不自然になる気もする。そういう「奔放主義者」ということで…。

勝間和代の著書「断る力」の帯に、「…私の世界はドラマティックに変わりはじめました」という言葉がある(記憶が曖昧だったので、いま調べました、ハイ)。


まさに今、自分にとってそんなときなのかな、と最近思う。「…ドラマティックに」というほどではないが、何かが変わり始めている。それは座っていて、立ち上がったときに視界が全然違うように、自分自身が意識を少し変えることで、周りが違って見え始めている、という感じだろうか。


変えた意識とは、自分が中心になるということ。これまでは自分は前面に出ることが苦手で、縁の下の力持ち、参謀タイプを自認してきた。だが会社で小さいながらひとつの組織を任されるようになると、その組織のトップ(=自分)が周りから認められないと、会社としても認められないことに気づいたからだ。


自分から情報を発信し、いろいろ他社・団体と提携していこうと画策していると、周りからもいろいろな情報が入ってくるようになる。それを感じているのが、今だ。そのうちテレビや雑誌にも、どんどん出るようになっていきたい。会社の資産を使って自分のスキルを上げ、自分ブランディングし、その結果培った人脈と信頼をもとに独立する。そんな青写真を描いている。



以前も書いたが、ツイッター、フェイスブックなど、実名を出してコミュニケーションを図る人が増えている。フェイスブックは世界的に見ると、日本ではまだまだ普及していないそうだが、それでも確実に増えている。


このブログにしてもツイッターにしても、ペンネームで書いている自分にとって、実名を名乗ってソーシャルメディアを使ってコミュニケーションをはかり、ネットワークを広げている人たちに、うらやましさを感じる。


企業に所属していると、どうしても赤裸々に語ることが難しい。世間との間をとりながら、言い方は悪いがごまかしながら生きている感じがする。これに対して、企業の看板に頼ることなく自分の腕一本で勝負しなければならないフリーの人たちは、実名から、仕事に対する考え方、日々起こっている出来事などを割りとさらけ出している感じがして、すべてをぶつけて生きているように思う。


企業人としての立場、個人の立場などを使い分けることなく、自分というものを一本化できれば、どんなにいいかと思う。そこには迷いがない。逃げ場がない。やるしかない。実にすっきりとしている。


こんなことを考えながら、悶々と過ごす日々が続く。