支那事変とは何だったのか⑨~支那事変の本当のはじまりは上海事変~ | 歴史好きのサラリーマンが今の日本を憂いて現代の維新志士となり、お金を働かせる知識とPCをフル活用して密かに救国の挙を目論むブログ

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こんにちは。維新志士 廣です。

昭和12(1937)年8月13日、本当の意味での戦争が始まります。

第二次上海事変です。

ちなみに、第一次上海事変は昭和7(1932)1月28日に始まり、5月5日に停戦協定が結ばれて終わりました。

上海租界(しゃんはいそかい)は中国領ではありませんでした。
日本人・日本軍は最初から上海租界の中にいました。
中国軍(蔡廷率いる19路軍)が上海の外からやってきたのです。

当時、上海には英米日伊などの国際共同租界や
フランス租界からなる上海租界が置かれていて、
北四川路や虹江地区に約2万7千人の日本人居留民がいました。

日本は上海の最高意志決定機関である参事会の一員だったのであり、
共同租界防衛委員会の一員でもありました。
英米仏伊などの列国は自国居留民の警護を目的として
自国の軍隊を駐留させていて、
日本も海軍陸戦隊1000人が駐留していました。

上海租界を英米日仏伊軍が地区ごとに役割分担で守っていて、
中国軍が上海の外からやって来て、








「金を出せ!」

と強盗のような不法な要求をし、
上海租界を守っていた日本軍を武力攻撃してきたから、
それに対して応戦して追っ払ったのが第一次上海事変です。

少し話がそれました。

で、第二次上海事変です。

昭和12(1937)年8月13日、国民党軍5万の精鋭部隊が、日本軍の居留民のいる租界に襲い掛かったのです。この頃の日本は、華北の居留民は陸軍が守り、華中、華南は海軍がその任務にあたるという、地域的な分担をしていました。







       上海陸戦隊

それで上海は、海軍陸戦隊(かいぐんりくせんたい)が守っていました。
しかし、その数は、わずか2200人です。
その2200人のところに、5万の支那国民党軍がやってきて、攻撃をかけてきたのです。











張治中

8月13日という日付は、この作戦の中心になっていた張治中(ちょうじちゅう)という将軍の計画に基づくものです。
彼は、先制攻撃の提唱者であり、上海攻撃のために、前々から戦闘準備をしていました。
とにかく先に素早く相手をやっつけるという主張を持つ人でした。

張戎(ユン・チアン)という作家の本で、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』という本が、上下二巻で数年前に出版されました。この本の中でユン・チアンは、張治中が蒋介石に次ぐ国民党の大幹部でありながら、実はスターリンのスパイであった事実を暴露し、第二次上海事変は張治中が「蒋介石の言うことを聞かず」に始めたと書いています。

しかし、蒋介石自身も、10年兵を養って日本と戦うという意思を満々ともっていましたから、そういう意味からすると、「蒋介石の言うことを聞かず」というのはあたらないと思いますね。。

ただ、張治中が実は共産党のスパイであったということは、まったくの事実でありまして、この人は1949年に国共内戦が決着したとき、国民党の側の代表として交渉に参加しながら、共産党側に寝返ってしまうという行動をとった人です。

ですから、国民党の中に、共産党がたくさん潜り込んで、コミンテルンの方針を実行していたというのが、当時の戦争の実態というわけです。

第二次上海事変が勃発したとき、国民党は外国人記者たちに向かって、
「日本軍が攻撃をしてきた」
というデマを記者会見で発表しました。
けれどもこのときは、外国の新聞記者たちは、この発表に騙されませんでした。
嘘だということを、はっきり気づいていたのです。

以下、当時のニューヨーク タイムズの記事を引用します。

ニューヨーク タイムズ 昭和12(1937)年8月31日記事

                 ハレット・アーベント上海特派員
上海における軍事衝突を回避する試みにより、ここで開催された様々の会合に参加した多くの外国政府の代表や外国の正式なオブザーバーたちは皆、以下の点に同意するだろう。

日本は敵の挑発のもとで最大限の忍耐を示した。

日本軍は居留民の生命財産を多少危険にさらしても、増援部隊を上陸後数日の間、兵営の中から一歩も外に出さなかったのである。

8月13日以前に上海で開催された会議に参加したある外国使節はこう見ている。

「7月初めに北京近郊で始まった紛争の責任が誰にあるのかということに関しては意見が分かれるかもしれない。

しかし上海の戦闘状態に関する限り、証拠が示している事実はひとつしかない。

日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐を示し、事態の悪化を防ぐために出来る限りの事をした。

だが、日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理矢理追い込まれてしまったのである。

中国軍は外国人の居住している地域と外交の権益を、この衝突の中に巻き込もうとする意図があるように思えた。」

以上、引用終了。

文中にある「増援部隊」というのは、やはり海軍陸戦隊の2000人の部隊のことをいいます。これを派遣後、数日の間支那側への刺激となることを避けるため、兵舎の外に出さなかったのです。海軍陸戦隊の本部は、4階建ての堅牢な建物で、そこに本部があると同時に、陸戦隊の隊員が全員泊り込めるような施設でした。

日本は、とにかくなんとかして相手を刺激しないようにして、戦争を回避したいという行動をとっていたのです。

果たして、「侵略」をしているのは、どちらなのでしょうか。。

次回に続きます。

今日はこの辺で。

それではまた!