邪馬台国論争というのは、まだ続いているのか、決着したのかよくわからない。自ら主張の正しさから、すでに邪馬台国は、もはや論争の余地がないという立場の研究者もいることは、確かだ。本来、魏志倭人伝の解釈から始まった邪馬台国の位置を比定する議論は、その後考古学の観点に重きを置くことに変化していった。それに先鞭をつけたのが京都大学の考古学教室であった。そのあたりの事情をメモ風に書き留めておきたい。(つづく)
さらに森氏の小林説に対する反論が続く。
第二に、小林氏の所論は、大正の昔、中山氏が提案した北九州の弥生式墳墓と畿内の古
墳とのあいだの連続性という問題に正面から答えていない。したがって、古墳文化が多く
の点で、畿内の弥生式文化よりも北九州のそれに近いことは、依然として否定できない。
たとえば、畿内の弥生社会の基制では甕棺が各地で発見されているが、幼児を葬ったもの
が多く成人葬は少なく、また副葬品もまれである。これにたいし北九州では、甕棺・支石
墓・箱式石棺などに成人の死者を葬ることがふつうにおこなわれている。成人の死者のた
めに墳墓をつくるという畿内の前期古墳の風習の起源は、北九州の弥生社会に求めるべき
であろう。
そして、森氏の指摘をうけて井上氏は次のようにいう。
要するに森氏によれば、古式古墳発生の母胎は、大和を中心とする畿内の弥生式文化に
はほとんど求められないのにたいし、北九州のそれからは数多く求められるのである。
わたくしは、神武伝承はあくまでも日本神話の一部であつて、史実の外のものであると
おもう。北九州勢力の東遷が事実であっても、だから神武伝承はこれを核としてっくられ
たとはいいがたい。だが、考古学上の事実から見て、弥生後期に北九州の政治勢力が東に
移動して畿内に勢力をかまえた可能性はきわめて濃厚である。天皇家をはじめ大和朝廷の
豪族のなかには、大和の土着ではなくて、こうして移ってきた人びとが多かつたのではあ
るまいか。
井上氏は古墳の発生に注目しているのだが、古墳といえども、ローカルな首長の墳墓に留まるのか、それとも、広域の空間を支配した王のシンボリックな墳墓なのか、その目的を見定める必要がある。
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朝日新聞奈良版に月一回の連載を始めています。本日3月1日は、纒向山の兵主神社について書きました。
井上光貞著の『神話から歴史へ』(日本の歴史 1)における井上の邪馬台国=九州説は、九州における古墳の出現が畿内よりも早かったという理由によのであるが、そのあたりの考古学的考察を森浩一の執筆に委ねている。京都大学の小林に対する反対論を同志社大学の森に部分的に執筆させている。後に、本書が後に文庫本になったとき、その巻末に森が「四十年ののちのあとがき」としてこのあたりの事情を書いている。それによると井上と森は面識がなく、突然井上から、電話で考古学の項目に執筆の依頼があったという。このことについて、私は思うことがないとは言えないが、本書の中かでは、「本書の執筆にあたって考古学上の点で協力をいただいている森浩一氏の小林説批判を紹介しよう」とある。以下、本書から引用する。
第一に、弥生後期には大和のほうが北九州より文化的に高くなつたというのであるが、
文化の高さとは何をさしていうのだろうか。奈良県の弥生後期と認められる集落址をたど
ってみると、この時期に他地方よりもずつと集落が発達してぃたかどうかは疑わしい。す
なわち奈良県で弥生後期の土器が発見された箇所は六十五、このうち集落址と推定される
のは三十ヵ所だが、そのなかで、規模が大きく、しかも多数に土器が出上したのは、御所
市鴨都波、橿原市東常門と唐古の三つだけである。このような集落の発達のぐあいから
みて、弥生後期に大和が政治的・文化的に優位を占めていたとはどうしてもおもわれない
のである。(以下次回)
井上は、邪馬台国の所在地は古墳の発生の時期にかかっていると、述べ九州説が有利であると述べたこともあつて、考古学の成果に論点を求めた。まず、井上は京都大学の小林行雄の銅鐸論をとりあげる。銅鐸が姿を消していく時代に小林は注目した。井上は次のように小林説を引用している。
「銅鐸が消えた理由を、その出土状態からみて、人びとがこれを放棄したと考えることは、ある意味では当たつている。だがそれは、剣や鏡を呪術宗教のシンボルとする北九州勢力の
侵入のためてはなくて、社会構造が変わったからである。いったい、鋼鐸は共同体の祭器であり、伝讃岐(香川県)出土の銅鐸絵画も示すように農業の収穫の祭器であったとおもわれる。それは一つのムラごとに、たとえば一つずつというような大事な祭器であったが、ムラが合併されると、おのずから、これを率いるムラの首長がその祭器を集めるようになるのであって、滋賀県の野洲町の大岩山で大小十四個の銅鐸が一カ所にまとめて埋蔵されていた(一九六二年にはさらに十個が発見された)のもその現われであった。しかし首長の属する共同体の規模をこえた、もっと大きな権力、すなわち大和朝廷がこの畿内の地に現われたとき、つまり古墳の誕生したとき、かれらはそれに従属するものとなったから銅鐸は不必要になった。これが銅鐸を捨てた理由である」
卑弥呼が都をおいた邪馬台国の位置について、九州説と大和説の対立は、よく知られている。それを復習的に記述するつもりはない。ごく簡単にふりかえってみると、東京帝国文学部につながる研究者は、白鳥倉吉をはじめとして、まるで一糸乱れることなくと思えるように九州説である。1965(昭和40)年に、中央公論社から刊行された「日本の歴史」シリーズの第1巻を担当した井上光貞(東京大学文学部)も下図を掲げて九州説の立場をとっている。
だが、井上は九州説にも弱点があるという。それは、卑弥呼は高塚に葬られたとあるのに、卑弥呼の時代に九州には高塚がなかったとすれば、九州説の成立は困難であるとした。
ところが、そのように述べながら、、古墳の編年と中国鏡の年代観から古墳の発生を3世紀末から4世紀初めにおく見解が有力となり、古墳が大和で発生したことについても種々の異論が生じていて、九州説の成立について有利な状況の展開していると述べた。ということは、邪馬台国の所在地は古墳の発生の時期にかかっているということになる。それは九州であると示唆する。