説明的に書かれた梗概かつ思考メモ

読みながら書くので全体の見通しが悪いですがお許しください。

 

『一冊の書物は』 瀧口修造

 一つ目についていました。読みます。必要に応じて引用と私の読解の感想や、課題をまとめます。
 「紙には空気が棲む。ましてや火が」
 →すでにこの書き出しで空気をはじめてしまいましたね。
 
 「宣言とは?シュルレアリスムとは?二つの無類な純無垢の問いが合成してしまったのだ」
 →デペイズマンを連想させるような物言いだけど、いうほどこの二つの単語の重ね方に違和感を感じない。
 
 「...リュシー...」
 →わからなかった。なんすかリュシーって。
 
 「詩といって何を意味したというのか、人よ。(中略) そこにある文学的保留を...」
 →あとに続く文から/「紙の白に溺れる...」からもなんか、理性の存在を思わせる。詩とは何かを考える過程の理性的過ぎるなにか。どうしようもないので初心に帰るという論理を経ようとするの僕的にはわかる。基礎づけ主義みたい。足場の確認だね。そして最後
 
 「「その男、それは、私だったのだ。」という最終行はどこの行に続くのだろう。」
 
 →文脈で考えれば"その男"はブルトンかな。あるいはうーん、私自身という気もする。ただ誰がシュールレアリスムを言い始めたのか、みたいな主体が相対化される的なことをいいたいのですかね。あと最終行がどこかに続くのだろう。という期待感にバフチンのポリフォニーみを感じる。つまり、続くこと、終わらないこと、議論のたえぬ様とそれが共鳴し、混声するさまを感じる。はてさて僕はどうしようか。この一文にふんだんに使われたこの読点。文章に呼気を感じる。
 
全体的にブルトンを主眼にした文章。『一冊の書物は』というタイトル。述語がない。くっつけてみる。
 
「一冊の書物は、その男、それは、私だったのだ。」
 
一冊の書物が何であるのか、それはブルトンである。
 
 なんか適当に統語論的になりたってるような論理のかけらもないいじくりまわしをしていたら、ああやっぱり「一冊の書物は」の指す書物は「シュルレアリスム宣言」のことなんだろうなって思った。そして上のむりやりの縫合からなるほど、この本はブルトンなのかなと思った。んー、僕の文章観と違うな。この本がブルトンすべてを代表するなんて解釈は打ち立てたくない。(ブルトンが固定的になってしまう。それは非現実的だ。時間の移動によってブルトンは変容し、また復活し、また嘲罵されないといけない気がする。)
 さて、この後ってなんだろう。この文章、始点「一冊の書物は」と終点「その男、それは、私だったのだ。」は示されているのに中は宙ぶらりんな気がする。道程がない。さて。本文に行こうか。
 

 

『シュールレアリスム宣言』アンドレ・ブルトン

 
 想像力の項を読んでて思ったのは、これ鷲田清一の『わたし・この不思議な存在』の「エクスタシーの放棄」に重なるなあという感覚でした。(エクスタシーの放棄とは、私が私以外の何物にも(想像の可能性として)なれるという感覚を大人になるにつれて失うということ。これって自由じゃなくなるっていう意味ではこの文章の理解に使えそうな概念だ。)成長するにつれて勝手気ままに禁令を課して私が「ライオンになる可能性」を殺していく様をいっている気がする。そして自由を歌い上げている。うん。そういう思想だったね。シュルレアリスムって。という感じ。以下引用。
 
 「想像力はどのあたりから悪いものになりはじめるか、どのあたりから精神の安全が断たれるのか?精神にとって、過ちをおかすことの可能性はむしろ、善の偶然性と等しいのではあるまいか。」
 
 この一文の読解は「善の偶然性」の意味を解明することにあるね。ただ私、偶然を扱った哲学に詳しくない。あまり使える感覚がない。想像力、自由と聞くといくつか頭にコンテクストは浮かぶけど、ローティとか。ちゃんと読んでないから雰囲気でしか使えない。ウーン。まあちゃんと読んでみよう。
 
 「想像力はどのあたりから悪いものになりはじめるか、どのあたりから精神の安全が断たれるのか?」
 
 これより前の文で作者は"想像力が自由じゃない!"と言っている。逆説的に"想像力は自由であるべきだ"とも言っている気がする。この文は"想像力の悪性"にフィーチャーしてるんだろう。そして「精神の安全」="精神が自由であること"と言い指しているんだろう。「過ちをおかすことの可能性」の"過ち"って、多分意味が「たんなる間違い」を指すもので道徳的な誤り(sin)、法律的な誤り(crime)、ひいてはmistakeのすべてを指すような響きを感じる。とにかく、"本来とたがうことができる"(子供がライオンになれる可能性)ことって、善が偶然に生じることと一緒じゃないか"と読解したくなる。
 上のパラフレーズはどうでしょうか。善ってなんだか不思議だよね。いったんここまでをすべて読み返します。
 
・・・
 
 「二十歳のころになると(略)人間を、光明のない運命に委ねてしまいがちである。」
 ↑これは「征服すべき土地の一部分を放棄する。」(比喩)、「勝手な効用性の法則のままに働くことしか許さない。」(婉曲的な言い方だし、内容加えられてね?)この二つを合一して説明的にする。「本来できたことができなくなって、"あなたの自分勝手な"利益なり、論理なりで想像力を働かさることしかできなくなってるんじゃない?」と言おうとしている気がする。"あなたの自分勝手な"っていうのがミソだと思う。原文だと「勝手な」だけだけど、この"勝手さ"と自由って違うからね。対立をここで置いとく。
 僕の文章を読むとまたまた、"エクスタシーの放棄"って使えるね!ってなる。僕もそう思う。幼年期の引用と土地の"放棄"。この二つってまさに鷲田の議論だ。じゃあさ、「私」っていう主体が立ち現れてくるね。気のせいかな。()このあとに続く文章はこの「勝手さ」を説明している文章だ。いい言葉が本文にあったぞ。引用。
 
「なぜなら彼は、すでに身も心も、是非のない実際的必要性に隷属していて...」
 
 "勝手な効用性の法則=是非のない実際的必要性"だね。おー、わかりやすくなってきた。"是非のない=勝手な"に対応する。これを僕が更に敷衍していこう。是非の無い,勝手な={よく考えない、ひとりよがりな、集団やコミュニティ、宗教、ドグマに縛られて負荷の有る、不自由な} この隷属性がいけないと言おうとしているね。この辺はもう読解できた気がする。最後に「想像力は自由であるべきだ」を讃えた一文を引用して次節へ。
 
「親愛なる想像力よ、私がおまえのなかで何よりも愛しているのは、おまえが容赦しないという点なのだ。」
 
 
本節の最後に狂気の言及があるけど、これは次節でまとめて引いていけそう。(パっと見)
この節、「エクスタシーの放棄」のまとめらる。これを言い換える。エクスタシーの放棄って、ロナルド・レインが本元らしい。ブルトンと時代も重なる。レインは精神医学の人物でこの関連も伺える。じゃあ、本節はまとめるとロナルド・レインってことになる。
・・・
 
「狂気への恐れから、私たちは、想像力の国旗を途中までしか掲げないでおくことができないだろう。」
 
 二重否定やめてえ。しかも俺の直観的な読解だと、"想像力は途中までしか使えない"っていおうとしているのかなとか思ったけど、忠実に読めばこれ、「狂気怖いけど、俺たち、想像力の信条をずっと掲げようぜ」ってなる。意味わかんね。狂気怖いんじゃないの。前節の最後さ、確かに狂人の幻覚幻聴幻影にアクセスしたいってブルトン君はいったね。(引用→)「狂人たちの打明話、これを聞き出すためだったら一生を費やしてもいいくらいだ。」って。ふーん。じゃあ、狂気か。想像力を解体すると、自由と狂気が残るのか。という感じです。続く文章、超難しい。一撃で理解できなかた。引用...だけど不完全引用をする。僕がその文章を還元しながら詩的な部分を残しながら、手がかりを見つける。換骨奪胎的読解だ。
 
「現実主義だっていうならまず、唯物論の立場を取ろう。でも唯物論の動きって畸型児・詩的っぽさがあってもそれとは別の形でそれ以上に完璧な失墜を含んでいるわけではないのである。そこに続くのは唯物論の好ましくない反動を予期するのだ。最後にこの態度は思想の持つ高揚とは両立しないものではない」
 
 唯物論、またコンテクストぶりこめそうだ。でもこれ、現実主義と唯物論(目の前にある物体・物質そのものがまず存在していて、ここから考えるのをはじめよう)って似ているけど後者の方が多くの含意があるのは目に見える。確かにそれを「詩的」だね。と呼称するのはわかる。で「完璧な失墜」ってなんだろうと。多分、これ現実主義の唯物論に対する超克をいってるんじゃないかな。"現実主義って唯物論ほど意味が錯乱してないよ"って言ってる気がする。たしかに。現実主義って平たく「現実大事!」だからね。やれ唯物論とかいったときに引き連れてくるコンテクストのうっとうしさがない。というわけで現実主義が唯物論的立場に立ちながら、その余分な文脈をそぎ落とそうとしているのがわかる。「高揚とは両立しないものではない」→高揚するんだね。わかったよ。回りくどいなあ。
 
 次にはアナトール・フランス、トマス・アクィナスからみる現実主義の評価をしようとしている。ここでやろうとしていることがつながった!!!!あー、新しい現実主義(超現実主義!すなわちシュールレアリスム)を打ち立てるために過去の現実主義っぽいやつを並べて評価してまわってるんだ。なるほど。先に注を参照するよ。アナトール・フランスが亡くなったとき、ブルトンは「埋葬拒否」をうたっているみたい。アナトール・フランスをもう少し分解したいな。そいえばいい文章あったな。ポール・ヴァレリーVSアナトール・フランスをちょっと自分なりに振り返ってみる。暴力でまとめるぞ。ヴァレリーもまたフランスを批判してるんだな。(脚注を見てそんなこと思い出した。)ヴァレリーの言い分を要約。「フランスの文は単純。本読みすぎで独創性がない。こいつは新しいモンを何も作ってない。」
 
 うっげ。なんか自由がない、制約まみれの人物としてのアナトール・フランス像がブルトンとヴァレリーによって素描されてしまった。かわいそう。あ、読むのつづけるよ。
 
 と思ったら、たまたまヴァレリー批判が続いてた。勘がいい。つまるところこうだ。ブルトンは「フランスは凡庸無意味」ってさ。
 
 ちょっと飛ばす。いろいろ書いてあったけど個人的に目を引くところはなかったかな。このつぎに来たのが論理主義の批判、合理主義の批判、哲学の批判、、、ニーチェに反プラトン主義の含意があるけどそれみたい。僕なりの言葉にすれば「論理が、主知が、理性が、我々を正しき方向に導き、真理を与える。」といいだげに聞こえる。ニーチェ文脈をデリダも引いてるけどそれとも重なるね。反ロゴス主義。引用して補強しとく。
 
「絶対的な合理主義が、私たちの経験に直接依存する事実だけしか、考慮に入れることを許さないのである。」
「論理的目標の方は、かえって私たちから逃れていく。言い添えるまでもないが、経験そのものまでが限界を設けられている。」
「経験は(略)、良識の監視を受けているのだ。」
「進歩という口実のもとに、(略)妄想だと言って非難できる一切のものを精神から追いはらい、実用にかなわぬ真理の探究方法をすべて禁ずるにいたったのである。」
 
 うん。ポストモダンでいいたげなことがたくさんあるね。説明を少し。まあ「絶対的な合理主義」っていう「絶対的」に代表されるように真理という言葉の通り、僕らはいつも進歩してるみたいな感覚にさいなまれる。これが違うよ!というのが大事だね。あと「経験は良識の監視を受けているのだ。」これはいい言葉だね。科学哲学の用語で理論負荷性っていう単語がある。これの原義ではなく応用から入るけど、つまり僕らは僕らが思っているよりナマの事実を観察できていないってわけだ。うーん、伝わるかな。つまり、ものを見るとき偏見に満ち溢れていてあんたが思っているより自由じゃないよって言おうとしている。「経験は~」はそういうことだと思う。この辺はさすがにデリダ、ヘーゲル、ニーチェかじってみようぐらいにしかいえないし、僕もかじっただけの人間なので大言壮語できないなぁ。この辺で終いにしよう。
 
 フロイトの議論に入るよ。来たね。シュールレアリスムの一本目の思想的柱だ。
 
 
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 この上の文章を書いたときから、数時間後の僕です。ちょっと書くのに飽きてしまい、最後まで到達しました。そしてシュールが嫌いになりました。ご査収ください。