こんにちは。みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

 

僕は昨日と今日で気分が良くないです。

 

少しその心情を打ち明けたいと思います。

 

人間は踏ん張りどころが沢山あると思います。私の思う結論から言うと大学生時代はふんばりどころだと思います。時間が潤沢に存在するのでなんでもできます。これは”絶対に”大事にしないといけません。

 

さて。私は友達と遊んだのですが後悔の念が強くて辛いです。友達と遊ぶ時ゲームを一緒にやったのですが、すごく後悔があります。ゲームなんてやらない方が得だからです。なんの身にもなりません。

 

で、なんで俺が友達と遊んでしまったのかを考えたんですよ。大学生って暇な時間多いよね。とか簡単にほざくひとがいます。僕もその気持ちはわかります。目標がない人だったり、目標が少ない人だとそうなると思います。

 

僕の場合は違います。勉強、読書、ファッションや美容といった趣味、映画、カフェ巡り。それぞれの趣味に課題意識があります。「つぎにこういうことをやってみたら面白いのではないか?」というアイデアが日々とまりません。

 

だからゲームなんてしている暇はなかったんです。

 

でも、友達と遊んでいる!という充実感を、大学生らしいことをやって満足するのも大事だと思うんです。

そう。僕は友人と遊ぶのは大学生らしさを感じるためだと思うんです。ゲームを友達の家に集まってやって「楽しい!」って感じてみるとか。こういうのが大学生らしさ、お酒をみんなで飲んで騒ぐとか。こういうのが楽しい!みたいなのが、こういう無目的で楽しいといういつ形がなくなるかわからないものを興じる浅ましさが。

 

僕は一週間友達と飲み続けるとか。いろいろやってみて、新しい居酒屋に行ってみるのは楽しいけれどショージキ、そこまでだな。と。楽しむときには楽しむマインドセットが整っていないといけないな。なんて思うんですよ。

 

僕はこのマインドセットの移ろいが非常に激しい人間です。てかそう自認しています。

 

新しいことを挑戦し続ける強さ、勇気

 

こういうものが感じられない保守的な人、現状維持をする人、固執する人、少ない価値観しかもたないのに人を評価できると勘違いしている人、読んだこともない哲学をこき下ろす人。

 

そのすべてが僕の拘り・好みから弾かれます。

 

つまり、好かないです

 

ここで克己の方針が一つ定まります。1.新しいことに挑戦しつづけること

 

です。

 

さて、この克己だとまだ浅いですね。僕はあと何歩か歩みを進めます。僕は自分のこの思想様式を"揺り戻し"と呼んでいます。

 

問いは簡単です。

 

「新しいことに挑戦し続けることを絶対化するのって偉いの?」

 

というのは当然に想起されると思います。

 

僕の思想は認識論的自然主義に進んでみます。この考え方は「何事にも哲学からまずアプローチする、哲学は学問の王様でそういう側面からとらえないのはダメ!」という哲学やってる人が行きつきがちな思想に対する反発です。ニーチェの反プラトン主義、僕はほとんど読んでいないのですが、こういう理知主義に対するラディカルな否認、こういうのはデリダの反ロゴス主義にも通じている?んですかね。僕は本当に無学なのでこれから読んでいかないといけないのかなとか思いつつ、とにかく理性って今までに期待されていたけど、思ったより駄目よね!みたいな安易な結論を言おうとしているのが僕です。(この自然主義は戸田山先生に依っているつもり)

 

この思想になると、つまり僕の個人的享楽に端を発するこの格率もそーんな安易にオッケーっていってしまってはいけませんね。僕の上記の克己・ストイック・禁欲・自律 の優位自体もNo!といわれてしかるべきですし、僕もそう思います。

 

さてここで揺り戻しが発生しました。え、個人哲学の基準として打ち出した概念を自分で破壊しにかかってしまったのですから。じゃあ、まだ暗中模索なんですか?となります。なりません。僕の考えたこの過去の営み自体は、この考えました!という過程自体は、この結論にいくための私の手立て・アプローチ自体は、決して無駄じゃない!(と思いたい)

(僕、脱構築っていう単語をイマイチ理解できている気がしなくて使用するのにためらいがある)

 

んさて。じゃあここで僕が立ち返るべき足場を探します。絶対的なものがなくなったんですから。

 

ここで足場として使うのは「じゃあなんで君は努力したいの?」という目的に対して、思想を投射していきます。

 

この目的を設定することでだーいぶアプロ―チしやすくなります。

 

僕は努力するのは「さらに自分の精神を高めたいからです。」

 

え、抽象的すぎるって?まあまあ外堀から埋めていきましょうよ!

 

「自分の精神を高める」というのはショウペンハウエルの<内なる財産>的なお話です。(これは僕の理解でいうと他者から評価されるお金や土地、地位や名誉といった財産ではなく、アナタ自身の中で大切だと思うことを、素晴らしいと思うことに注力しましょうという発想です。)

 

これは決して快楽主義的傾向ではございません。つまり、「楽しいことをやれ!」という方向にはあまり進みません。(毎日、女性と遊び呆けて自分の精神が高まっているとでも思うか?俺は大してよいとも思わない。) 否!更にメタなことを言っちゃおう。「自分の精神を高めること、努力することが<楽しい>」んですよ。ここでもキッチリと顛倒を起こしましょう。これも説明します。

 

一般的な"楽しい"に対する対立概念を"辛い"に置いてみます。すると楽しくないこと=は行うのがつらいことです。(この二項対立(この二つが対義語の関係にあるとみなすこと)がナンセンスだって?面白いことを思うね。君。ハハハ線引き(哲学の問題ではこの手の言い方をする問題がたくさんある)が難しかったり、アンビヴァレンス(二つの矛盾する感情を同時に抱くこと)が存在することぐらいわかってるんだよ。まずこういう対立を認めて、措定しな)

 

つまり定義的に辛いっていうのは楽しいになるわけないんです...よ...こう"措定した(考えてみたら)"ね。

 

こうなったらアイデアとして、"辛い"の区切りの中に入っていたことを"楽しい"の区切りに入れてみよう!っていう、対概念を問題を消してやろうという発想になってしまいませんか?はい。こういう発想にもっていくと、”辛い"区分に存在していたけど、例えば自分の感受性の変化によって"楽しい”の区切りに押し入ったものって、"辛い"(という感覚を記憶している)けど<楽しい>になりませんか。

 

(ぼっくは”楽しい"と<楽しい>を意図的に使い分けています。この感受性の変化も勘案しないとうまくやってけないよね。)

 

ながながと説明してしまった。だから僕は昔は辛いと感じていたものでも、訂正して辛いということは記憶しているけど楽しいことなんだという解釈変更を成すことができますね。

 

あんまりこれ本筋と関係なかったね。外れたトロッコを本線に戻してみます

 

ケツ論!結局はね、目的っていうのは動的で目的自体も訂正されるから絶対的なものとして置かれないけど、我々の手段を正当化・理に適っているとするものとしては充足しているから、目的の設定をやりましょう!ということです。(こういう訂正の語法は東浩紀に由来する)

 

ここで筆者は「自分の精神高める」っつう目的があって、具体的には「本を読む」「学習をする」「知らないことを知る」がある。これは個人的な享楽だと強くわかっているから他人に押し付けない。

 

あと違う切り口でいえば、自分の意見を他人に押し付けるヤツは他人に不快感を与える。他人に不快感を与えるのが悪いことだと決めつけるのもダメだと思う...(学校のセンセに怒られて当時は死ぬほど腹が立ったけど、思い返すと自分が未熟だったなあって思うことしばしばないですか?)けど!まあ、人間関係の構築に際して相手に不快感を与えるのはダメだよね。(これが正当化されるかどうかも目的に依拠するけど。こーゆーことを言っているのが僕なので体罰とかも目的によっては理論的に正当化される節があると思う。実践としてダメ、つまり体罰の調整ができないからダメ!は「体罰がダメ!」とは別問題としても区分けを入れられると思う。)

 

んー、武器もってくるならミルの危害原理とかあげとけばいいんだろうけどね。僕はわりとこれを正しいとおもっているところがあります。まあこいつの絶対さに対しても顛倒をしかけないといけないとは思うんだけどね。

 

安易な「ストイックいいよね」から何歩ぐらい進んだカナ?とりあえず、「禁欲を愛しても信仰するな!(絶対化するな)、んでも目的があるならその線で正当化して、実践しよう!」に行けるね。僕の揺り戻しカウントだと2回だわ。絶対的な”禁欲”の否定と、そうであっても禁欲を"肯定”するための手立てとして目的を求める。

 

つまり。。

 

 

禁欲・ストイックはええで!みんな、自分の目標(≒目的)をちゃんと認識して生きよう!

行き詰ったら無目的を愛そう!(無目的それ自体を信仰しよう)