地下鉄の地上を歩く会 丸ノ内線−8③ ✿ 淀橋 成願寺 中野長者・鈴木九郎 | 一人、"地下鉄の地上を歩く会"

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山や街を歩いて見聞したことや身の回りのことなどをお話しします。

西新宿駅を過ぎて、神田川にかかる淀橋。由来の説明板にかかれていることをそのまま書き写します。

『 「淀橋」の名は、江戸時代の三代将軍徳川家光が名づけたといわれています。

古くからあるこの橋は、昔は「姿見ずの橋」とか「いとま乞いの橋」といわれていたといいます。このあたりで中野長者といわれていた鈴木九郎が、自分の財産を地中に隠す際、他人に知られることを恐れ、手伝った人を殺して神田川に投げ込みました。九郎と橋を渡るときには見えた人が、帰るときには姿が見えなかったことからその名がついたといわれます。

 江戸時代の初めに鷹狩りのためこの地を訪れた徳川家光はこの話を聞き、「不吉な話でよくない、景色が淀川を思い出させるので淀橋と改めるよう」に命じ、これ以降、その名が定まったそうです。』

(お問い合わせ 新宿区みどり土木部道路課 電話3209−1111)

  ✿ 中野長者・鈴木九郎、覚えていてくださいね。

 

 

 

中野坂上からは方南町方面に歩きます。

「多宝山成願寺」は中野長者・鈴木九郎の寺として知られています。

 

 

 

大雄殿(本堂)。

 

 

 

広い境内の一角にあるスダジイの四阿で休憩。

3月10日生まれの焼き菓子名人が今回もおやつを提供してくれて、皆で舌鼓を打ちました。

 

 

 

境内には六地蔵菩薩や蓮池藩鍋島家の墓所等、興味を惹くものがいっぱい。

 

 

 


この像は馬頭観世音の教科書みたいです。馬頭観音とだけ文字で彫られたものやらさまざまですからね。

 

 

境内の一角に大きなスペースの「中野長者・鈴木九郎のものがたり」

 

『鈴木九郎が中野本郷に住みついたのは 約六百年前 足利時代の初めである 彼の先祖は古代の貴族穂積氏を元とし 紀伊熊野権現の別当を代々務め のち武家となった 

源平合戦の頃には 鈴木重家・重清の兄弟がおり 義経に従い西は壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼし 北は衣川の館で戦って義経に殉じた

足利の世には 南朝の臣に列する刀槍を重んずる一族であったが 応仁の世 天下入乱れて 領地権力を奪い合う あさましい時代となった

これに愛想のつきた鈴木九郎は 新地開拓を志して神田川の辺に至り 桑を手に田園生活に入った 芒ばかりの湿地を起して稲を植え 松のみ茂る荒れ地を拓いて 馬数頭を養ってなりわいとしていたが その貧しさはまことに目を被わしむるものであった そんな或日 九郎は下総葛西の馬市を目指して東に向かった』

 

 

 

『葛西とは 利根川 現在の江戸川下流の地域で 中野からはほど遠い道筋である その途次 浅草観音に詣でた九郎は 「馬代金に大観通宝が入っていたら それをすべて賽銭にいたします どうか馬が高く売れますように」と願をかけた 大観通宝とはその時代 おおいに使われた宋銭 輸入穴あき銭の一つである

馬は予想外の高価に売れて一貫文(二十万円位か)を得た しかし 驚くなかれ 代金はすべて大観通宝だった

九郎は観音様に祈願した約束通り大観通宝をそっくり奉納し 一銭も持たずに家路を辿った

無一物の九郎を迎えてうろたえた妻も ことのいきさつを知った時 「それはよいことをしました これからは 観音様が私たちを見守って下さり つとめに励めば 必ず報いられましょう」と 合掌して喜んだ』

 

 

 

『その日から九郎は 妻の言葉通り 今まで以上に開拓に精進した

妻女も又 貧しさに負けなかった

そんなある日のこと・・・

ある朝突然・・・

九郎の家が黄金色に輝いた

なんと黄金がぎっしりとつまった壺が九郎の家に出現した

「南無観世音菩薩」

九郎は改めて観音様に感謝をし 約束をした

「この地を平和と幸福に あふれた土地にいたします」

その後 九郎は 人々のために 大きな田や畑をつくり 橋と舟もつくり 人や物が行き交う 豊かな土地に発展させた

神田川のほとり鈴木九郎あり

九郎は人々の評判となり 「中野長者」と称賛されるようになっていた』

 

 

 

『一粒種の娘 小笹は 成長するに従って 光るが如き美しさを加え 人々は

「中野長者の持つ最上の宝は あの娘じゃ」とうわさした

今 長者夫妻の幸福はまさに 頂点に立ったと思われた

しかし 長者の宝と称された 愛おしく美しい娘 小笹は 若くして病気になった

長者はお金をどんどん使って 様々な手をつくしたが 小笹は その甲斐もなく 死んでしまった

悲しくて 悲しくて長者夫妻は 食事ものどをとおらなかった』 

 

 

 

『 「この世に幸福をと願い 生きてきたその結果が 愛おしい娘の死とは・・・」

夫妻は絶望し生きるチカラさえ失い 苦しんだ

「本当にこの世に平和や幸福はあるのだろうか」

絶望の底にある夫妻を救ってくれたのは・・・

若き日に観音様に祈り 約束通り全てをさし出した あの時と同じ心であった

相模の国道了尊最乗寺の 春屋宗能禅師こそ大徳なりと 耳にした夫妻は 直ちに上山参籠 中野本郷への巡錫を乞うた

諸行無常是生滅法 巨万の富も無に異ならず

大義を悟った九郎夫妻は 宗能禅師に就いて授戒した

授戒は佛門に入る儀式である 夫は正蓮 妻は妙珊の戒名を 授かった』

 

 

 

 

『また 精舎(お寺)を興し 小笹の戒名 真正観善女に因んで 正観寺と号した

正観寺は九郎没後 邸を 境内として伽藍を整備した 

川庵宗鼎和尚を迎えて開山とした

現在の成願寺の名は 江戸時代再興の折に 「願い成る」として 名付けられたものである

これより先 九郎は祖先の地熊野より 十二所の天神地祇を勧請し お祀りした

西新宿十二所熊野神社の 始まりである

発心の人鈴木九郎を 偲ぶよすがである両社寺に 今なおさかんに人は集まる

観世音菩薩の大慈悲 功徳を まさに仰望せん』

 

 

 

 

開基・中野長者鈴木九郎の墓地です。

淀橋の説明にあった鈴木九郎と同じ人物。ギャップあり過ぎ・・・!

 (つづく)