✿曽我兄弟が仇討ちを遂げてから4年後の建久8年(1197)、頼朝の命を受けて岡部安綱は曽我八幡宮(曽我神社)を創建しました。==こちらです。
✿相模国大磯宿の遊女・虎御前は、兄十郎の愛人であったと伝えられています。
曽我兄弟の死後出家し、諸国を巡って菩提を弔いました。
「虎が雨」という夏の季語があるそうです。
5月28日(十郎が討たれた日)に降る雨と、虎御前の悲しみを重ねたものですって。
大磯町の鴫立庵(しぎたつあん)に、「虎御前」の19歳の有髪僧体の木像が安置されています。
この鴫立庵には2019年7月「地下鉄の地上を歩く会」の特別編で、照が崎海岸のアオバトを見た帰りに寄りました。 (この写真は2015年8月撮影。)
元箱根の石仏群の中のこれらの五輪塔は曽我兄弟と虎御前の墓と言われています。1295年(永仁3年)に建てたことが刻まれています。
赤穂浪士の大石内蔵助は江戸に向かう道中、箱根を通り、仇討ちで有名な曽我兄弟の墓を詣でて、討ち入りの成功を祈願しました。このとき墓石を少し削って懐中に納めたと伝えられています。
この五輪塔を見つけた時は、これこそ大石内蔵助がお参りしたお墓!と思いましたが、果たして合っているでしょうか。
曽我兄弟のお墓は関東から九州まで十数カ所あるそうです。
曽我兄弟とは思わぬところで出会うことがあります。
両国の江戸東京博物館には歌舞伎十八番の「助六由縁江戸桜」の舞台が再現されています。
助六は曽我五郎で白酒売りは曽我十郎と説明板に書かれています。
歌舞伎座で「助六」を観た時は、ちっともそんなことは気が付きませんでしたけれど。
※日本の三大仇討ち
・曽我兄弟の仇討ち(1193年)
・伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘 1634年12月26日 荒木又右エ門が登場します。)
・赤穂浪士の討ち入り(元禄15年12月14日・1703年1月30日)
※曽我兄弟の仇討ちの背景には源頼朝暗殺計画や、頼朝政権クーデター等があると現代では研究されているようです。