ファルコン号の飛行日誌

ファルコン号へようこそ。

やっと、お招きできました。この船は、ポンコツだけど、Solo船長の腕はたしかでございます。

ときどき、ショートしますが、きっと、優秀なR2と心やさしい3POが直してくれるでしょう。


それにしても、宇宙には面白いものがいっぱいでございますよ。

ふぅ~~んって、思っていただけたら、幸いです。

主な登場人物は、トムくん(小5)シャーリー(高1)でございます。どうぞよろしくね。


Amebaでブログを始めよう!
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子どもの将来。

すっかり、ご無沙汰してしまいました。その間に、シャーリーは、高校2年生になり、トムくんは、小学校6年生になりました。


この「しばらくの間」に、いろんなことがあり、いろんなことを考え、模索してきましたが、この「しばらくの間」に、一番変わったのは、「私」ですって、自信をもっていえます。ソレが、一番、驚きで、嬉しいことかな。

子どもよりも、成長したもんね!って、思えます。

つい最近、子どもたち、だんな様からも、そういわれました。


中のひとつ。子どもの「将来」ってものについて。


こないだ・・・といっても、まず、1学期のおわり、7月に、シャーリーの個人面談がありました。

ま、前回も書きましたが、相変わらず、「どこの大学にいくか」

それしか、興味ないのかよっっ!!、ってくらいの流れでした。


小学校の先生になりたい。

そんな夢と希望があるので・・・、ちなみに、これをはっきりいえる子は、すでに、希少価値のようです・・・

そこから、逆算?すると、学芸大とか、横浜国大とかになるわけです。しかも、お金ないから、国立にしてくれって、いってあるし。


でもね、お恥ずかしいことに、偏差値が、まったく足りてないわけです。



で?


先生も、シャーリーも、判で推したように、残りの1年少し、心をいれかえて、がむしゃらに、がんばりましょう!っていうわけ。


それで、すむなら、「先生」稼業って、ラクで、いいよね。


東大を頭に、大学の羅列があって、ソレ自体は、私は否定しません。

でも、そのスケールにあわせて、ひとつでも、ランク上の大学をめざせばいい、「進路指導」って、そんな安易なものなの?「教育」て仕事って、こんなの?


今回の反論。


先生、私は、うちの子、16年みてきています。今まで、中学受験のときでさえ、最後まで、のんきでした。

ここで、急に、人が変わったように、がむしゃらに「勉強」に身を入れるとは思えません。


それに、この子は、どんなときも、パニックにならず、おだやかで、いられるところ、

結果、人からみたら、「そんなところ?」っていうところしか、手に入らなくても、人の目を気にせず、与えられた環境を、充分楽しめるところ、それが、良さなんです。


だから、人が変わったように、勉強なんて、してほしくないです。世間的に良いとされてるスケールなんて、意識するようになってほしくないです。


小学校の先生という、人にナニカを伝えていく仕事をしたいって、言ってます。

勉強以外の人生経験を、だからこそ、たくさんつまなきゃ、いい先生になれないじゃないですか。

感受性の豊かな、大事な時期、勉強なんかより、もっと、この子らしい、個性的な感受性を育んでほしく、もっと、自由に他の事にも、没頭してほしいと思います。


それでも、一応、「受験」ですから、入学試験もあるので、もちろん、最低限の勉強はしなくてはいけないと思います。最低限の勉強で、入れる「大学」にしたいと思います。

大学では、「教員免許」がとれればいいわけで、全国のどこの大学で、取得してもいいんです。

そして、この子は、どこの大学にいっても、そこの良さを、充分、享受できる子です。


だから、がむしゃらに、勉強なんて、させないでください。

今のままの力で、入れる大学は、どこですか?それを探してください。


って、言ってきたよ。



先生は。。。「はあ・・、でも、まだ、あきらめなくても・・・」とか言ってましたが、

「ですから、あきらめ、とかではなく、必要ないって、いってるんです。

うちの子、他にとりえがたくさんありますから、これ以上、勉強とか、学歴なんて、他を犠牲にしてまで、必要ないって、いってるんです。  うちの子、そういう子だと、思いませんか?いい子ですよね。」


って言いました。「ええまあ。たしかに、すばらしいお子さんです・・」とかなんとか、言ってたけど、ほんとに、「勉強」以外の視点で、生徒をみたことがあるのかどうか・・・ほんとに、うちの子の良さ、わかってるんだか、どうか・・・。


まあ、「先生」はともかく。

シャーリーも、横で聞いてて、かなり、想定はしていたけど、それ以上に、ちょっと、びっくりしたらしい。

それは、後日、友達どうしで、「個人面談で、親と先生が、こんな話した~~~」って、井戸端会議のとき、痛感したらしく、・・・またしても、「あなたの家、変わってるよね~。でも、うらやましい~~」って、言われたらしい・・・。


どこの家も、「数学の成績の上げ方」・・・とかがメインだったらしく、あげくのはてに、「がんばりが、足りない!!」って、親と先生に怒られて、面談中に泣いた生徒もたくさんいたらしい・・・・。

数学の成績で、人格否定されてもね~~。それ、食べられないし、人も喜ばせられないよ・・・シラー



このとき、シャーリーも、一度は、「なるほどね」って、言ってくれたのですが、その後、夏休みをはさんで、また、学校の大波にのまれてきました。


私立はだめって、いうけど、もし、「青山」なら、合格したら、行かせてくれる?


なんて、言ってきた。


は?


まず、第一に。「青山なら・・」てどういう意味?


「・・・や、もっと、下の、大学なら、だめって、いうかもしれないけど、早稲田慶応は、無理なんだけど、青山くらいなら、がんばって、受かれば、ママも、青山なら、ぜひ行ってって、いうかなって、思って・・・・」


なんじゃそりゃプンプン爆弾

(なにがどう、なんじゃそりゃ?・・・なのかは、あらためて、説明することもないので、省きますが・・・。)


なんで、そんな考え方になっちゃったの?って聞いたら、結局、周りの大きな流れが、どうしても、「東大・早稲田・慶応以外は、あんまり、胸張っていえないよね~~。最低でも、立教・青山・明治だよね~」って流れの中で、まったくちがう考えであることを、いえないうちに、流されてきたらしい・・・・。


地方の国立大学で、中くらいの成績より、びりでも、青山を出た方が、やっぱり、有利だよね・・・だって。


爆弾爆弾爆弾



青山で、ビリの成績・・・って、どんな人物像、浮かびますか?

中途半端なプライドで、都会の大学に入ってはみたけど、ほとんど、勉強せず、渋谷で、遊んでました。

それなりに、ファッションぴかぴかで、アパレル志望で~~す!なら、まだ、納得できるけど、

それで、「小学校の先生」になりたい・・・・?って、どんだけ、中途半端なんだよっっ!て、かんじしませんか。

偏見だとは思いますが。


正直、彼女は、「成績」で勝負できるわけではない。

都会的センスで、突出してるわけでもない。


でも。


どんなところにいっても、順応でき、ものごとクヨクヨ考えず、一晩寝れば、ケロリ。

誰とでも、お友達になれるし、競争意識もない。協調性がある。

体を動かすことを、いとわない、働き者。貧乏くじを、貧乏くじとも思わない。

飼育係や植物係り・・・・面倒見もいいし。

おおらかで、穏やかで・・・。確かに、自分にもあまいけど、人にはもっと、あまくて、やさしいし。



東大を筆頭にある、大学の羅列、せまい世間体・・・そんなのから、早く抜けて

こういう「長所」を生かすって、方向に、早く、考えられるように、なってほしいなって、思います。


もしね、ママが学校の採用担当だったら、青山で、びりの子より、地方大学で中くらいの成績、そして、個性的な子を、採用するね。


それにね、あなたが、今まで、教わってきた「先生」、思い出してごらんなさい。

何人か、自分が、先生になりたいって、思った、きっかけの先生もいたはずだよ。


たとえば、O先生。

ハワイ大学を出て英語が出来ることもあり、ふらりと、みょうな国に、一人旅したり、友達になった、外人さんが、自宅によく泊まりにきてて、その、エピソードは、ほんとに、おもしろかった。


たとえば、A先生。

植物が好きで、まず、季節の植物の話をしないと、話が始まらない。

鳥も大好きで、日本野鳥の会なんかにも入ってらして、生き物好きなアナタとは、放課後、遅くまで、よく話をしてくれてたよね。今も、珍しい「鳥」の写真なんか、送ってくれたり、送ってあげたりしてるじゃん。


たとえば、I先生。

女だけど、スポーツ万能で、足も速く、何でもできるから、男の子たちからも、一目置かれていたよね。



シャーリー先生。

あなたの、とりえと、売りは、何?



先生って・・・どういう職業だか、よく考えてごらんなさい。

それでも、「青山で、びりのほうが、まだ、地方大学より、マシだよね」なんていう考え方になる?

(そんな考え方の先生に、教わりたくないなあ~~。特に、小学校時代は)


「自分」の将来は、「自分」の基準で、決めないと。


子どもって、まだまだ、未熟で、ものの考え方とかは、まだまだ、ジコチューの域をでないなあ~って、思うけど、

なんだか、こういうことになると、急に、人の目とか、易い世間体とかにふりまわされちゃうのね。

ジコチューと「自分」が確立している(=自律)は、まったく、ちがうからね。


ジコチューな部分は、これから、だんだん、しぼっていかなきゃならないし、

自律の部分の「自分」は、もっともっと、育てなくちゃね。



というわけで、ばかがつくほど、「素直」でもあるシャーリーは、

のんきで、無理しない長所を、生かすべく、とても、受験生とは思えない、生活を送り(家族中で、一番睡眠時間が長い!!小学生より!)、部活に、ますます没頭し、あちこちの、催し物にふらふら出かけております。

そして、なにより、家のことも、よくやってくれます。さすが、はたらきもの!

家族のお弁当、毎日つくってくれるし、休みの日は、ご飯のしたくは、ほとんどやってくれます。

掃除も洗濯も。。。



学校で、禁止だから、しかたないけど、アルバイトとかも、ほんとは、どんどん、やってもらいたい。

私は、禁止だけど、隠れてでも、やれば~~て、すすめてるんだけどね。

隠れて、お酒飲んだり、スカートの丈、あげたりするより、よっぽど、建設的な校則破りだと思うんだけどね~~。



とってつけたように、追記しますが。


こういうふうに考えられようになったのは、私、自身が

世間体から、みる「母親」とか「妻」とか・・・「家庭のありかた」とかを、一度、投げ捨てたからだと思います。

捨てずに、抱えたまま、頭だけで、違う次元のことは考えられません。


「飛ぶよ!」ていって、後ろも見ずに、先の保障もなく、「自分」っという存在を純粋に、実感してみたく、

飛んでみたことで、わかったこともたくさんあります。


それは、こわいことでもあります。

すべての人の信頼を裏切って、もう、二度と着地できないかもしれないって、こわさとの闘いでもあります。

えらそうに、言ったまま、単なる、宇宙のもくずになっちゃのかもなあ~~っとか。


でも。



子どもが、「私って、長所がいっぱいある。それは、ママより、いっぱいある。それを生かした、自分の将来が、少し、想像できるようになった。そうやって、考えればいいんだね」

そう言ってくれたので、きっと、ついてきてくれてるんだなあって、思えました。



つばさ・・・ていうコースの名前。

やっぱり、すごい、命名だなあって、思います。





合唱祭

また、久しぶりです。

宝石赤今日は、シャーリーの合唱祭がありました。


子どもの行事って、前にも書きましたが、やっぱり、「節目」ってかんじで、なにはともあれ、よくここまで育ってくれたねって、けっこう、じ~~んとくるものですね。


今年の合唱祭。

昨年までは、そんなふうに、私も思っていたのですが。

今日は、また、ちがってました。

なんていうか、ぜんぜん、ひとごとでしたね。


見慣れた制服の子がたくさんいて、お世話になってるはずの先生方のお顔も、たくさん見えましたが、明らかに、もう、まったく、「私」のことではないって、線が引けてる自分がいました。


前回の、個人面談のことでは、たくさんの方から、メールなどいただいて、ありがとう。


そのままでいいじゃないかって、思えるには、「子どものこと」を「自分のこと」といっしょくたにして、感じてしまっているところから、抜けなければって、いうのが、まず、ありました。


それは、「子ども」の手を離してしまうようで、「親」を放棄してしまうようで、不安もたくさんありました。


でも、、大丈夫なんだって、今日、わかりましたね。


また、まったく違う形の絆ができつつあるなって。


最後の段階は、「つばさ」ですよ。

到達した自分自身につばさが生えるんです。

子どもだけではないよ。ママ自身にもです。


そしてね、わかった。

「飛ぶ」ときって、後ろを見てたら、飛べないの。前しかみてない。


子どもが、運動会で、走るとき、ずっと、ママの方を見ながら走っていたら、「いいから、前をみなさい!」っていうでしょ。

同じなんですよ。「飛び方」を見せるなら、そのとき、「子ども」の方を見ながらなんて、できない。

先に、前だけみて、飛ぶしかない。

大丈夫、後から、ちゃんとついてくるよって、信じて。


子どもは、口で言ったようには、ならない。やってみせたようになる。

って、よくいいますよね。

そうですよ。

本を読みなさいって言ったり、小手先で、読むように仕向けたりするより、家事も忘れて、ママ自身が本に没頭してる姿の方が、ずっと、伝わると思う。そのとき、すぐでなくても、そういう「風景」が、ずず~~っと、子どもの心の底に残るはずです。


本だけに限らない。



宝石緑それと、関係ないですが、心に残った言葉です。


「失敗は、できごとの出来不出来のことではない。失敗とは、起きたことから、何も学ばなかったことをいうんです」


そうなんだなあ~~。


だから、東大に合格したって、なんで、大学にいくんだかわかんないって、言ってるんじゃ、それは、「失敗」なんですね。

でも、「受験」に不合格でも、そこから、学びがあれば、それは、失敗ではない。


人生、半分もくれば、あのとき、失敗と思ったことも、いま思えば、「岐路」であったにすぎないって、思います。


宝石ブルーこないだ、お友達と会いました。ほんの、数ヶ月ぶりだったのに、その間に、「ガン」になったことがわかってね~~~って、話で、びっくりでした。


今日、今だけを考えようと思う。

「日記」をつけて、自分の足跡を確かめることは、すごくいい、励みになること。

ガンなどの重病になった方のたどる、心理なんだけど、最初は、受け入れられなくって、混乱。それから、周りへの恨み。会ったときは、そこから、半分、抜けかかっていたような段階でした。

ご両親との仲がイマイチ悪くて、今回も、自分が期待したような反応が、なくって、恨み。。。。

病気をきっかけに、仲直りできるかと思ったのに!ってね。


でも、アナタにとっては、なんのきっかけ?なんのため?って、思うこと、って、もしかしたら、「相手」のためには、何かの大切なきっかけと、チャンスになっているのかもしれない。


ほら、よく、心に残るひとこと、みたいのって、受け取った人は、一生忘れないけど、言ったほうは、まっったく覚えてなかったりするでしょ。


自分は、何のために生きているんだろう、何で、生まれてきたんだろうって、思う人ほど、たっくさん、「人」に、いろんなものを与えているからかもね、って、。私は、思うよ。


ご両親の言動は、残念ながら、アナタには、必要ないものだったかもしれないけど、ご両親には、この「機会」は、すごく大事なものになってて、ご両親には、言動とは裏腹に、きっと、大事な「岐路」になっていると思う。

人は考えなんて、日替わりだから、今頃は、きっと、ぜんぜん違うこと考えてたりするよって、ね。



宝石紫前だけ見るのは、「孤独」なんだよね。「不安」なんだよ。「なんで・・・」って思ってしまう。見失いそうになる。


そうそう、こなだい、別のある人にも言われたんです。


「見失ってるって感じる。前も後ろもわかんない。。。」

それが、「無」の境地ですって。


精神だけでなく、魂が、「無」の境地になるとそういうことだそうです。

「今」だけに、精神と肉体と、魂が一致していると、執着が何もなくなる。

煩悩は、一瞬、「あれ?私って、なんか、道を見失ってる?キリの中?」って感じてしまうのですが、そうではないんだって。


そうね、確かに、霧の中にいたら、足元のことしか、考えないもんね。



「無」の境地になるために、滝にうたれる必要なんてないみたいです。

日常で、それは、ふっと、訪れる。


病気だったり、子どもとの喧嘩だったり。




宝石白そうだ、合唱祭。

別のクラスの曲だけど、たまたま、自分の高校時代に合唱祭で、やってた曲もあって、それは、一気に、自分の高校時代に時間が引き戻されて、ボロボロと涙が出ましたね。

「アメリカン・フィーリング」だよん


そうだよね。

高校時代は、高校時代にしか楽しめないこと、たっくさんあるじゃない。

自分はどうだった?ちゃんと、高校時代、楽しんだかな。(楽しんでたよっっ!って言われそうですが)


それと同じ。

今のトシだって、また20年もたてば、ちゃんと40代、楽しんだ?って、思いだすんだよね。

そのとき、楽しんだよっ!って、思いたい。


そして、子どもたちもね、今を楽しんでいるかどうかが、やっぱり大事かな。

未来は、今の延長上にしかこないんだから。


今日は、楽しかった?

おつかれさま。

明日も、また、楽しい日でありますようにね。

保護者会と個人面談

しばらくたって、しまいましたが・・・過日、あんちゃんの個人面談がありました。


ここの学校にがんばって、入って、4年目。

正直・・・「私立」の良さって、イマイチわかんなくなってきてはいます。。。

今行ってる学校が、良いかわるいかといえば、すっごく良い学校です。

想像していたことは、違ってませんが、そういう環境が、子どもの成長にとって、どうなのかは、あんまり納得できてないかな。

しょせん、自分が、公立で、もまれた派だから、わからないのかなあ~~。

(主人とは、それを、自分のプライドが許せないだけだろっ!って、言われて、大喧嘩になりましたけど・・・)



まあ、まだ、あと二年あるので、大枠の答えは、ゆっくり考えるとして・・。

このところ、「大学進学」について、ものすごく、うるさい。

だいたい、「大学進学」なんて、親がかりでしたか?

保護者会で、子どもとの会話の「予備知識」程度の「大学進学」の流れの説明なら、まだ、わかるんだけど、(私は、それすらも不要だと思ってるけど)

なんで、保護者会で、「世界史の勉強のしかた」なんて、延々と聞かされなきゃならないわけ?それ、家に帰って、子どもに話して、子どもが、「そうなんだ、よくわかったよ。ありがとう。」なんて、なるわけ?


・・って、お友達ママに、同意を求めようと見渡したら、みんな、必死で、メモしたあげく、質問までしてる。「模擬試験を受けたら、そのままになってるんですが、どうしたらよろしいでしょうか」・・だって・・。

模擬試験代を、親が出すから、そんなことになるんだよっ!!


で、誰にも、同意を求められず、気づいたら、「爆睡」してしまった・・・。

ていうか、「爆睡」して起きたのに、まだ、話が続いてて、それにびっくり!


そんなのが、。「全体保護者会」でした。


で、次の日、個人面談でした。


想像はしていたのですが、のっけから、「大学」のことばっかり・・・。

ず~~っと、黙っていたのですが、やっと、「なにか、お母様から?」って言われて、用意していった、メモをほとんど読んだかんじで、私が考えてること、お伝えしてきました。



そのまま、転載しておきます。




「家だと、細かな注意が先にたってしまい、すぐ、険悪になって、ゆっくり話せないので、

この場で、娘にも、あらためて、親の考えを聞いておいてもらいたいと思いました。

この学校では、この学校での6年間を楽しく有意義に過ごしてくれればよいと思っていることが、大前提です。大学進学が目的でこちらの学校を選んだわけではないです。

基本、彼女の選択は、何でも、OKです。受け入れます。

選択科目説明会も、欠席させていただきましたし、昨日の大学についての説明も、うちでは、親には必要ないと思いました。

大学にいったから、どう、いかなかったから、どうとは思いません。

どの道になっても、彼女の人間性を、絶対的に信じています。

長所は、動くことをいとわないこと。

困っている人を放っておけないこと。能力以上に、めんどうみがよい。

おおざっぱで、緻密さがないので、忘れたり、うっかりすることはよくあるが、

基本的には、約束やルールは守るものと思っているところ。

賢くはないかもしれないですが、ずるくもない、マジメだと思います。

将来、どんな仕事をしていくにしても、こういう長所がありますから、どんなところにいっても、ちゃんとやっていけると思っています。

自分から、選ぶ道にしろ、結果的に与えられた道にしろ、「大学進学」という視点では、失敗・成功、あると思いますが、人生のひとつの道としては、失敗でも成功でもないと思っています。

本人は、今、すごく狭い視野の中にいるので、大学に受かるか受からないかしか、ないと思いますが、親の方は、その視野ではないし、本人も、本来は、そういう見方をするタイプではないです。

どの道にせよ、結果、与えられた道で、また、全力で、楽しみ、意義をもって、やっていけるタイプなので、何も心配していません。

本人の前で、種明かしをしてしまうようですが、これから、あと2年間あまり、ここの生活で、「大学進学」というハードルで、学んで欲しいことは、「自分で求める」「自分で選ぶ」「自分で決める」「自分で責任をもつ」という、人生の道は、「自分のものである」という自覚と、そこから生まれる自発性を学んでくれれば、それでいいと思っています。

小学校の教員になりたいというのは、自分で決めたようです。

なので、うちの経済事情も考え合わせて、まずは、国公立の初等教育課程のある大学への準備は、なんとかしようと考えています。

ただ、私立でもいいかとか、そのための予備校だとかの次の段階には、親から見ておりまして、まだまだ、勉強に対する意欲や、情報収集、本人からの動機、熱意などが、本人の努力するべき点がかなり残っていると思いますので、今は、親の方からは、考えておりません。


現実的には、国公立の大学に受からなかった場合、卒業後の生活が、何も決まらないとうことでは、困りますので、就職活動は、平行しては不可能ですから、今の段階では、国公立大学が、だめであった場合は、専門学校を考えています。

親が堂々と言うのも、おかしいと思いますが、でも、娘は、「学歴」には、左右されない、「人間性」をもっていると思っていますから、だから、なにがなんでも、「大学」、せめて学歴をつけさせなければ、とは、親は考えていないということです。

成績が振るわないからと、投げやりな意味で言っているのではないです。

今後、大学進学についての具体的なことなどは、一切、学校の先生方と相談するようにとおまかせします。彼女のどんな決断も、結果も、信じて、受け入れますので。

親は、それよりも、残りの2年余り、とても、気に入って、入学したこの学校を有意義に存分に楽しんで過ごしてもらいたい、こちらの学校の理念を、少しでも身につけて卒業してもらいたいと願っているだけです。」



うまく、伝わったかは・・・どうかな。


お子さんが、今、保育園という、若い先生で、「母親としては、見習わなければならない、お考えです。」って言ってたけどね。


そのあと、やっと、

「クラスでの様子ですが・・・」って話になった。


あたりまえじゃん、そっちでしょ、大事なのは!

そっちを聞きにきたんだよっ。



とはいえ、私自身も、すっきりと、こう、考えられて、言えるまで、ものすごく、苦労しました。

ずいぶん前にも、言いましたが、自分自身が一応、大学を出て、大学進学100%の私立に、入れて、それでいて、本当に、その道を選んでも、人生なんだって、思えるのには、本当に、苦労しました。



言い古されてますが、生まれるときは、五体満足なら・・・それすらも、もう、いい、元気なら・・・て、思ったのに。


どんどん、たくさんの条件がくっついてくる。



あんちゃんの学校は、片道1時間40分かかります。

学校に行く度、(最近は、車で行っちゃってるんだけど・・・)ああ、こんな往復を元気で、毎日してるだけでも、えらいなあって、思うんだけど、ついね、顔みると、細かいこと、怒ってしまう。



元気なら、本人が幸せなら、いいじゃない。そうでしょ。

何度も、ずっと、その基本にもどらなきゃって、苦労しましたよ。

そのために、いろんな回り道。。。。



とりあえず、心からの、自分の言葉で、無理なく、言えるようになって、

まさに、私自身が、のりこえたなって、感じてます。



まあ、まだ、小さなハードルひとつですけど。



帰ったら、あんちゃんは、ぼそっと、「・・・こんな親、いないよねえ~~」って言いました。


いい意味で言ってる?



「・・・へん、ってこと!」


だって。

心の鏡

宝石紫ずっと、いつかは、自分の整理のためにも、書いておきたいって、思ってました。芸術のこと。音楽のこと。

まだまだ、あふれてくるばっかりで、ぜんぜん、まとまらないので、もう、思いついたことから、

時々、ランダムに書こうかなと思います。だから、ほとんど、独り言みたいで、意味不明だったらごめんなさいね・・・あせる


宝石ブルー前にも、ちょっと言いましたが、芸術って、絵も音楽も、自分の心の「鏡」だと、私は思っています。

ある作品を鑑賞することで、作者の心なんて、どうだっていいんです。

それを見た、聴いた、「自分の心」を映し出すものだと思ってます。

だから、「これ好き!」っていうのを、とことん、探すんです。


宝石緑作品から、出るある波長に、共鳴する、自分の心がみつかるときが、あるんですね。

好きだなあ~、気持ちいいなあ~、ずっと、見ていたい、聴いていたいって思う、癒されるなあ~~、

そんなのですね。


宝石紫武満徹さん(作曲家)のエッセイかなにかで、おっしゃっていました。

あるとき、どなたかの尺八を、聴きにいかれた。静かな、山の中の山荘で、尺八の音だけが響いていた。やがて、その尺八の音がやんで、あとには、卓の上で、ぐつぐつと、鍋の煮えている音だけがしていた。そのとき、「この音も、音楽です」といわれたとのこと。

まわりには、他に何の音もない、静けさ、そして、グツグツというちょうどよい、音、それも含めて、尺八の演奏だというわけです。


宝石赤同じようなことを、昔、オフコースの小田和正さんも、あるインタビューで、言ってました。

彼は、曲をつくるとき、例えば、8拍刻むところは、あえて、間を抜いて、4拍にするんです。抜いた間の4拍は、聴いたみなさんが、心の中で、刻んでくれるようにって、ことです。メロディーでも、詩でも、だから、あえて、音や言葉を抜くんでだそうです。


宝石ブルー最近、フュージョンというか、JAZZがいいなあって、思ってます。フュージョンも、もともとは、JAZZから派生したジャンルなんで、兄弟って、ことで、あえて、同じくくりで話しますが、JAZZの魅力は、(もちろんいろいろありますが!)曲のつくりが、繰り返される、決まったフレーズがあって、そのうえに、PLAYERの数だけ、アレンジというか、アドリブが展開されていくところです。だから、ほんとは、生LIVEで、鑑賞するべきものなんですけどね・・・。


宝石緑ああ、あの、一番わかりやすい例でいうと、JAZZでなくても、LIVEにいくと、お決まりの曲になると、サビの部分とかで、MUSICIANが自分で歌わずに、マイクを、客席に向けて、お客さんに歌わせるでしょう。要するに、ああいうことです。


宝石紫JAZZの構成の基本は、最初に、あるフレーズを印象づけます。聴いてるほうは、そのフレーズが、ずっと、頭の中で、響いているわけです。

そこへ、それをふまえて、アドリブがのっかって、くるんです。そうすると、頭の中の音と、実際に聞こえてくる音との「和音」というか、響きが生まれるんです。それを、楽しむわけです。


宝石赤つまり、回を重ね、年を重ね、また、「スタンダード」と呼ばれる分野に殿堂入りした曲なんかは、もう、あるフレーズを聴いただけで、いろんな人の、いろんなときの演奏が、頭の中で、ハーモニーされてきて、そこへ、今の自分の気分の音がのっかって、頭の中、大オーケストラ状態なわけです、しかも、今の自分にぴたりと合った。

それが、今は、私には、「星に願いを」だったりするわけです。

これは、回数重ねるほどに厚みを増すわけだから、年齢重ねると、この楽しみ方は、とってもすごいことになってくるわけです。。。。

若僧に「星に願いを」のよさが、わかって、たまるか!みたいなね。


宝石ブルー小田さん流にいえば、「あえて、間を抜く」という手法で、聴いた人に、実際には、ない音や言葉を、頭の中に生まれさせてもらう・・そういう手法もあるのですが、逆もあります。

重ねるやり方です。「あえて、たっくさんの音を、ちりばめます。その中で、一番強い部分に、ちゃんと、あるフレーズが浮かび上がってくる手法です。5個の音をだすことで、その5個のどれでもない、あらたな1個が、頭に浮かんでくる・・・っていう作り方です。ちょうど、青と黄色を塗り重ねて、緑が生まれるようなものです。


宝石緑いずれの方法にしろ、実際に聞こえてる「音」、見えてる「絵」だけを、受け取るものではない・・・、私は、芸術って、そう思ってます。

じっと、聴いていて、眺めていて、「第三の音」「第三の線」「第三の色」が、見えてくるのを楽しむんです。

その、「第三の音」は、実際に聞こえてる「第一の音」に「自分の中で共鳴した第二の音」、その調和の中で、生まれた「第三の音」です。

そこに、今の自分の心が、純粋に表れてくるんです。


宝石紫音楽や、絵、造型は、・・・その、「自分探し」にはまると、やめられません・・・ほんと。

やめてもね、体が反応してしまいます。。。。


宝石赤昔、若いときは、どちらかというと、たくさんの音を重ねる手法が、わたしには、合ってました。ヘビィメタルと呼ばれる、とんでもない音量の音にひたって、そこに「究極の静けさ」を見いだして、極上の贅沢を味わっていました。ただし、仲間うちにしか理解してもらえませんでしたけどね。

ROCKじゃなくても、PIANOも、楽譜が真っ黒になるほど音符がたっくさん書いてある曲が大好きでしたし、シンセサイザーで、数え切れない音を作って、シーケンサーで、重ねて、一人オーケストラとか楽しんできました。

ま、それも、若気のいたりで、いくとこまで、いったら、つきて・・・。年もとり・・。



宝石ブルー今は、そちらではない手法に、魅かれていますね。だから、サックスなんです。この「単音」しか出せない楽器。正直、昔は、なめてました。ハーモニカだって、いっぺんに2個の音、出せるじゃん・・・って。

それが、今は、逆に、なんて、幅の広い表現ができるんだって、思って、はまってます。

たった1個の音しか出てないから、聴いたほうに、たっくさんの音の可能性を想像させる。

リードの振動という常に不安定な「音」だから、さらに、その可能性が、もっと、広がっている。

すごいなあって、思って惚れ込んでます。でも、これも、年齢のなせる技ですかね。


宝石緑へんなたとえですが、ふにゃふにゃのボールを、跳ね返さなきゃならないとしたら、受ける、こちらが、しっかりとしてきますでしょ。バ~~ンって、跳ね返すには、ふにゃふにゃの板ではかえらない。堅い、安定した、板でないとね。だから、サックスの不安定な音を聴いていると、共鳴させようと、こちらは、「自分」という板を、しっかりみつけなきゃならないんです。それを、「疲れる」と感じるときと、「自分」が強くなれる、「自分」が鮮明になってくる喜びと感じるときとがあるんです。


宝石紫若いときの自分は、きっと、まだ、「自分」という板が未熟すぎて、ふにゃふにゃボールは、疲れるだけって、しか思わなかったんだろうなって、思います。いきがっていたのとは裏腹に。

だから、サックスの音、JAZZの曲が、この年で、あ、いいなって、思えたこと、それだけでも、自分を嬉しく思ったりしてます。

そして、いつかは、何の音も無い山荘で、鍋の煮える音だけを聴きながら、実は頭の中には大オーケストラの演奏が流れるような、自分になりたいと思ってます。


音譜I LOVE MUSICドキドキ


(いつかまた、続く)


あ、そうだ。ごめんなさい。こないだは心配かけて・・・。

ここで、叫ばせていただきましたが、、、おかげさまで、すれ違ったと思った方とは、その後、誤解がとけました。

大丈夫です。メールまで、わざわざ、くれて、心配してくれて、ほんと、ごめんね・・・。ありがとう。

誤解しあってしまったその方も、それから、わざわざメールくれた方も、ほんとに、大事な大事な人だよ。ありがたいですラブラブこんな私ですが、これからもよろしく。。。。






途中ですが・・・。

こちらは、大変、ご無沙汰しています。

こんななのに、時々、読んでますって、メールとかくださって、本当にありがとうございます。

あちらのブログでは、見てのとおり、「楽しく」毎日、過ごさせていただいてます~~!ってことで。


いっぺんに、すべてを書くことはできないので、少しづつ。


自分に変化が起きたのはいつからか・・・もう、一年くらいは、たつかもしれないです。

すっごい、落ち込んでました。いつになく。。。。


紆余曲折、悩んで、考えて、カウンセリングの勉強にいくことにしました。

自分の自覚としてもそうだし、学校のほうからも、まずは、セルフカウンセリングですって、ことで、いろんなこと、教わり、試したり、また、考え込んだり、情緒不安定になったり・・さらに自分を見失ったり・・・。

これでも、結構、人生最大?ってくらい、落ち込んでました。

いろんな危機もあったんですよ~~これでも。


カウンセリングの授業で教わったことは、たくさんあるのですが、もちろん、すぐにすべてを消化できるわけもなく。自分で、つかめたことは、いくつかです。



すべてが暗闇だとしか思えず、不安と恐怖、絶望しかなくなったとき、もがいて、上を向こうとせず、あえて下を向いて、自分の足跡を、ひとつづつ、拾いましょうってこと。


反省って、悪いことをあげつらうことを「反省」とよんでいるようですが、そうではなく、「今日、自分が少しでも心がふれたこと」それを、確かめて、「今日の自分」を確かめていくこと、それが反省だってこと。



心がふれることって、なんだろうって、思って、それは、自然とか、食べ物とか、ちょとしたぜいたくな気持ち(金銭的なぜいたくという意味ではなく)そんなことなんだそうです。まずは。
日記として書くもよし、写真を毎日一枚撮ろうって、思うこと、それだけでも、違いますよ。


授業では、「音楽療法」も、少しやりましたが、やっぱり、私は、音楽はずっと好きだったので、私にとっては音楽は特別で、クラシックのピアノもそうだし、ギンギンのROCKももちろん、それ以外も、たっくさん、たっくさん、自分の生い立ちに、すごく関わったいろんな感情をダイレクトに思い起こさせてくるので、それはむしろ、積極的に引き出していいということ。


「大人」になったから、「母親だから」っていう理由で、成長したつもりで、ただおさえて封印していたこと、それは、時間だけたっても、やっぱり、ただ封印しただけで、消化はしてないわけです。
おさえた「自分」、・・・でもね、確かに、子どもが小さかったとき、家庭がまだ、未成熟だった頃、は、しかたなかった、と思います・・・それは。
次のステージになって、おさえた「自分」はやっぱり、日の目にさらして、また、子どもと一緒に消化しなおしていくようになるんだって、思いました。

とまどったし、こわかったし、不安でした。自分を解放してしまうのは。
かえって、家庭がこわれないのかなって。でも、最後の賭けみたいな気持ちでした。
まさに、押してだめなら、ひいてみなって、とこですね。


子どものこと、家族のこと、そっちばかりを見るのはやめて、自分の足跡、自分の心、だけに専念してみたら、逆に、みんなが寄ってくるんですね。「わたしとあそんで」みたいです。まさに。
そしたら、やっぱり、単純に、愛おしくなります。

自分に正直になったら、相手を好きになれて、
好きになれたら、また、力もわいてきて、強くなれた。
強くなれたら、やさしくなれる。周りににも、自分にも。
自分を許して、自分って、愛おしいって、やっと思えるようになりましたね。
蛇足ですが、(笑わないでね!!)最近、いろんな人に、「かわいくなりましたね」って、言われるんだよ~~。
実は、ほんの、今日も、言われました。
それ、どういう意味ですかねって、聞いたら、「ナチュラルになった」ってことよて、言われました。
かわいいかどうかは、ともかく、ナチュラルになったっていうのは、嬉しかったですね。
そうかもしれないって、自分に、認めてあげてもいいなって、思ってます。
ま、こんだけ自由に楽しく過ごさせてもらってますからね。

ここまで、たどりつけること、これが、セルフカウンセリングの道程なのかなと思いました。

その後もいろいろあって、 今は、フラワーエッセンス、というものに、偶然、出会いました。

ご存知ですか?

私は、まったく知りませんでした。ひょんなきっかけで、何の予備知識もなく、かるい気持ちで、参加してしまっているのですが、自然界の「波動」を転写してどうの・・・って、話で、正直、信じなければ、うさんくさいだけのモノです。


だから、最初は、「うへ、場違いなところにきちゃった~~」って思ったのです。

その、エッセンス自体は、信じるか信じないか、効果があるかないかは、ともかく・・・。

う~~ん、私にも、わかりません。肯定も否定もしてないって、ところ。


ただ、理論が、「最後は、自分です」っていうのが、気に入って、処方はともかく、話だけは、最後まで聞こうかなって、思って、とりあえず、続けてます。


まだ、うまく、消化して、話せるところまで、いっていませんが、また、思うことあったら、書きたいと思ってます。



そうだ。一言だけ、吐き出せてください。ここから先は、完全な独り言です~~。

ここのブログを読める方ではありません。ここには絶対、これない方のことですので。ごめん、よけいな心配はしないでね。


「自分が傷ついてるからって、人も傷つけていいなんてことないよっむかっ


ちょっと遠い存在の方でしたが、気持ちがすれ違ってしまいました・・・。

久しぶりに、ちょっと、落ち込み・・・。悲しいです。よかれと思ったことが、また、裏目で・・。

まだまだ、精進が足りないなあ~~って。

悲しい気持ちと、怒りの気持ちが、交互にきてました。

でも、今日、欲しかったCDがまた聴けて、それは、とっても、心にふれて、泣いて、泣いて、洗い流して、今こうして、一言だけ、言ったら、もう、いいかなって、落ち着いてきました。

泣くことは、いいことなんですよ。浄化ですからね。

水平思考と垂直志向

子どものこと、考えがまとまるのには、ご無沙汰してました・・・。


最近の私は、母親してるというより、自分の趣味を爆発させていますが・・・。

意外~~って言ってくださる方と・・・らしい~~って言ってくださる方と、

私としては、意外ではないです。もともと、母親やる前は、こんなでした。

(ふと、思い出しました。結婚式で、お互いに、相手に一言ドキドキなんていう、甘い場面でさえ、だんなに、「趣味は、ほどほどにしてください」なんて、言われたな~そういや。)


こんな少女が、母親になってしまったんだもの、そりゃ、悩みますよ、いろいろ・・・。



カウンセリングの勉強をしてて、いろいろ面白いこともわかってきたんです。


人の分析って、良い趣味じゃないと思うけど、でも、やっぱり、血液型や星座なんかから始まって、やっぱり、理解したい、分かり合いたいがゆえに、なんらか、手がかりとしてタイプを分析してみたいなって、思いますよね。


そのひとつにすぎないかもしれないけど・・・。

人には、水平志向と、垂直志向があるようです。わかりやすい判断としては、「夢」らしいんだけど。


たとえば、水平志向だと、誰かと、もめたりすると、その人と、いかに解決するか、そのもめごとを、どう解決するかが、絶対な課題。

でも、垂直志向の考えだと、人間関係そのものについてを、深く考えてしまうんですね。


あまりにも、簡単な説明で、スイマセン、これじゃ、わかんないですよね。

でも、私は、長年、娘との確執というか、価値観がちがう!って、悩んできた、糸口だったんです。


彼女は、友達と、もめると、それを、「解決」すべく、ぐちゃぐちゃと、やってるわけで、

私にしてみれば、「離れなさい!」の一言。

この違いなんです。


私のような、垂直思考タイプは、たとえば、誰かともめたりすると、その人がどうこう、とか、問題自体のことではなく、その人間関係って、ナンだろうって、そのこと自体を悩んでしまう。だから、究極、付き合い続けるのか、もう逢わないのか、って、選択肢になってしまうんです。


でも、娘は違う。

付き合い続けるか、付き合わないかって、選択肢は、何にも、解決になってないって、わけです。

そういう、想定は、ないんですね。


目の前にいる人とは、とにかく、いる。解決っていうのは、あくまでも、起きたことの解決ですね・・・。


あ、かみ合わないわけだ・・・。

お互いに、お互いを、「徒労」だって、批難し合ってきたんです。。。。。。う~~ん、なるほど。



彼女のような水平思考の人は、悪く言えば、同じところの堂々巡り。

まあ、私には、そう見えちゃうんだけど、そういうことではないらしい。

だから、それに、とことん付き合わないと、消化不良になっちゃうんだよね・・・。



私のような、垂直思考は、常に、上方向ばかり観ているらしい。

そういう、たて方向の「夢」を、常時、見るらしいですが・・・はい、実は、当たってますね。


お子様の中でも、なんていうか、人より、モノの執着するタイプというか・・・

いると思うんですが・・・。


ママとタイプが違うと、相当、理解するのに苦労するかもしれないですね。


私も、長い間そうでしたが、なんで、人より、モノって、思ってしまうんだろうって、ずっと、罪悪感を持ってました。(これでも!)

でも、大丈夫、こういうタイプは、人に背を向けて、人が嫌いで、ひとりになりたがっているのではなく、モノを通して、人と共感したがっているんだと、教えてもらいました。


そうなのかもしれない。すっごく楽になれたんです。


好きなだけ、趣味に没頭しなさい、そのほうが、人に、興味がわきますって、ことらしい。

都合のいい言い訳かもしれないけど、当たってるかもしれない・・・。


ガマンして、自分のこと削って、子どもの話を聞いてても、結局、自分の価値観の押し付けみたいな話しか、できなくなってるけど、

最近、そうです、音楽の話をしていて、結局、素直に話せなかった、カレシなんかの話も、いつのまにか、笑ってできるようになってる。。。

ママはこう思うよって、言っても、ママはそう思うんだろうねって素直に、受け入れてる。

なんか、びっくりです・・・。



それでもね、じゃあ、母親も、好き放題に過ごしていいんだ!って、ことでは、イコールではないんです。


まだ、勉強中で開業したわけではないですが・・・先日、どうしても、って頼まれて、一人、カウンセリングの勉強させてもらうのも兼ねて、お話させてもらいました。


彼女は、生い立ちの中で、青春期・・・つまり、人と人と、精神的に一対一での信頼関係をつくる時期に、欠落があって、それが、尾を引いてることが、わかりました。

そうすると、そこから、埋めるんですね。


やっぱり、生い立ちの時期によって、埋めておかなきゃならない最低のことってあるんです。


幼児期は、やっぱり、スキンシップなんです。

だから、抱っこして、読み聞かせをする、その、声や、肌のぬくもり、五感でつつんでおくのは、本当に良いことなんだなあって、あらためて思います。


たとえば、大人になって、ココが欠落してるからって、いきなり抱っこはできないですからね、

そういう場合に、「箱庭」とか、やるんですね。

砂を、ずっと、さわってるだけで、落ち着く、おもちゃみたいなもので、遊ぶ。

水や、砂を触りながら、ときには、手のマッサージなどもしてあげなかがら、話をするんです。


ああ、絵本の読み聞かせなんかも、結構、いいかもなって、思いました。


あらためて、あの、例の、コース建ては、ほんとにうまくできてるなって、思いました。

コースにしたがって、本を読むことも大事ですが、やっぱり、本当に大事なのは、「本」そのものではなく、この時期に、何をするべきなんだかを、把握して、読書、それから、子どもに接してあげることだとおもいます。



ママも、ある時期にきたら、自分のタイプ・・・自分自身を、きちんと知っておくことが、大事です。

聖母じゃありませんからね。

そして、本当の意味での「自分らしく」いることが、遠回りでも、実は、一番、子どもと分かり合えるんだと思いました。「逃げ」と「自分らしく」あることは、違います。



忙しい時期かもしれませんね。

自分のやりたいと思ってることは、「がまん」ではなく、「あたためて」おきましょう。


子どもが、「一人前の精神的な一対一の成長」をする時期に、ソレ、必要になってきますから。


手のマッサージだけなら、まだ、プロとはいえませんが、よければ、してあげますよ~~。

手って、意外と、お疲れなんだよ。

思春期ですか・・・

思うことは、たくさんあるのですが、なかなか、文字になるまでには至りません・・・。


高校生ですからね、男女の話題も、まあ、あって当然ですけどね。

自分の高校時代を思い出せば、親の視点から考えると、なんてまあ、危なっかしい高校時代だったと

思ったりも、あらためてしますが・・・、自分が、親になると、こうも胃の痛くなるおもいだったかと、

あの頃は、親心なんて、実は、幼少期の頃以上にわかってなかったんだなあって、思います。


まさか、問い詰めて、叱るわけにもいかず・・・いてもたってもいられないような・・・。


それでも、娘さんが、今年、24歳で、めでたくお嫁にいくことが決まった、大先輩、久しぶりに、

「子育て相談?」させてもらって・・・え~~~~、と驚く話が、またいろいろ聞けました。


はあ~~、こんなのまだまだ、かわいいもんですかねえ・・・

そうよお~~~にひひって、言われて、ああ、この方のように、もっと、肝っ玉すわらなきゃなって、思いました。


もう、直接つかまえておくこともできず、じかに、問題を話すこともなかなかできず・・・、大人からみれば

危なっかしいところに子どもがいるのに、つかんでおくことができないもどかしさ・・・。


ひとつ、印籠をもらえたのは、その大先輩に、言ってもらえたことです。・・・(ああ、もちろん、昔からの、読み聞かせをがんばった先輩です!)

「でもね、読み聞かせをして、あれだけ一生懸命育てたでしょ。読み聞かせで心が育ったかどうかは、あけてみることできないけど、たぶん、大丈夫。それに、あなたが一生懸命、まじめに、子どもに向き合ってきたこと、結果的に、そのときは、失敗した~~ってときもあったかもしれないけど、一生懸命だったこと・・・子どもをちゃんと優先してきたこと、それは、必ず、子どもに伝わってるの。だからね、今、危なっかしいところに居るけれど、必ず、もどってくるから大丈夫。この一線っていうのは、超えない・・・超えられないって、こころは、ちゃんと育ってるから大丈夫。信じていなさい!」って言ってもらえて、ありがたかったです。


「思春期だからさ、男女関係も、何もかもが、とにかく、刺激的なわけ。妄想で頭がいっぱい。

でも、そこから、これから、学ぶんだから、とりあげることもできないのよ。自分だって、そうだったでしょ!」


はい・・・もっと、危なかったと思います・・・


「親のことも、うっとおしくて仕方ない。すべて反発してくるのよ。でも、今、24歳で、自分の家庭を作ろうと、新居を構えたり、結婚式のしたくなどで、久しぶりに、いろんなところへ、一緒に出向いたりすると、笑っちゃうくらい、今まで、私が、教えてきたtこと、やってきたことを、・・・家では、何にも言うことをきかなかったくせに・・・外では、しっかり、やってるから笑っちゃいます。

なんだ・・・この子は、いくら言ってももう、だめだって、思っていたけど、なんだ、ちゃんと聞いていたんだ・・・って思ってね。」



いいなあ、そんなふうに思える日が、くるんでしょうかね。きっと、くるんですよね。

そのとき、ちょっと、報われたって、思うのかな。小さい頃と違う意味で、愛おしいなあって、また、思うんでしょうかね・・・。



あああ、あと、何年だろ・・・。

演奏会

先日、シャーリーの演奏会がありました。

朝出かけるときは、また例によって、めんどくさいなあ~~なんて、ちょっと思っちゃいました。

それでも、実際に、始まって、演奏しているところを見れば、やっぱり、なんだか嬉しいし、へえ~~、それなりに、ずいぶんうまくなったんだなあっなんて、思います。

何より、この大勢の中で、毎日、楽しく、少しは、つらいこともあるけど、それなりに充実して、ここで、青春、おくっているんだなあなんて、なんだかしみじみしますね。


運動会でもなんでも、子どもの様子をこうして、あらためて「見る」ときって、つい、生まれてからのことが走馬灯のように見えてきませんか。

ただ泣いて眠っているだけだったのに・・・・、言葉すら通じなかったのに・・・、一人でどこへも行けなかったくせに・・・、それが、いつのまにか、こんな立派になってるなんて・・・思ってしまいますよね。

だから、「親」の目線って、あまくなるんでしょうかね。でも、こういう、甘さは、必要ですよね。



こないだ、ある「先生」と、たまたま話をしました。

行くはずの日に、時間に、子どもが来なかったら、すぐに連絡してほしいです、当たり前じゃないですか。

休むとき、遅れるときには、ちゃんと連絡してるんですから。


そう言ったら、「休むとき、遅れるときに、きちんと連絡をくれるお宅には、もちろん、すぐに連絡します。でも、家庭の方から、そういった時の連絡がいつもないのに、こちらが、その連絡をしなかったからって、怒るのは、おかしいじゃないですか。」


そういうんですね。

それは、確かに、理屈としては、正しい。

いつも、何の連絡もなく、遅れてきたり、休んだりしていれば、本当に、何かがあっても、ああまたかって、思われるだけ、オオカミ少年みたいな話ですよね。

そう、それは、もっともですね。


でも、ことは、「子ども」なんですね。

「子ども」を預かる職業なんだから、そういう、理屈を超えたところで、ただ単純に、「心配」っていう気持ちって、わかないのかなあって思っちゃうんですね。

確かに、いつも連絡もせずに、遅れたり休んだりさせるのは、その親は、非常識だと思います。

今日はたしかに、行きましたってときに、来てなくて、すぐに連絡をくれなかったと言って、烈火のごとく、怒鳴り込んでくるというのは、たしかに、理屈では非常識です。

でも、心情としては、わかる部分もあるんだけど。


え?行ってない?どうしたのかしら・・・でも、いつも、連絡もしないで、だらしがないのは、コチラが悪いから、いいわ、しかたない・・・なんて、思えるほうが、どうなんだろうって、思います。



「子ども」を預かる仕事って、そういう「ルール」を超えたところに、志があるっていうことが、必要なんじゃないか、と思うんですけど。


そう、今は、もう死語かもしれませんが、だから、「先生」も「聖職」といわれる所以なんじゃないかなあ。


「先生」や「医者」とか「警察官」とか・・・「聖職」と言われる職業っって、ひとりの人間ですからって開き直っては、やっぱり、いけないんじゃないかなあって、思います。


同じ並びではないけど、やっぱり、「母親」も同じかなあ。

私だって、一人の人間よ、って思ってしまったら、とても、「子ども」なんて育ててられません。

こんな、非常識で、ずうずうしくて、ルール破りで、わりの合わない相手、やってらんない相手はいませんよね。


でも、その子のことを思うと、今の目の前のその子だけでなく、ふ~~っと、小さい頃からのこと、こうして重なって見えてきたりするから、なんか、特別の情がわいてくる。理屈を超えた気持ちになれるのは、そんなことじゃないかな。

それでまた、この非常識でずうずうしいだけの相手を、大事に思えたりすることができる。


パパたちがね、子育てに参加してくれなくて、ママが追い詰められていくのは、別に、オムツをかえてほしかったり、皿洗いをしてほしいんじゃないんです。


こうやって、ママが、一人の人間であることを抑えて、親という聖職に徹しようとしている横で、「仕事」という殻の向こうで、「一人の人間」をし続けているから、そこに溝が入るんだと思います。

気持ちだけでもいいから、一緒に、抱えてほし・・・かったんだけどね。(過去形・・・ですね、もはや)


空の巣症候群

私の母親の世代の頃から、こんな言葉がはやりだしたのでしょうか。私がまだ、子どもだった頃、母が、30代とか40代とかかなあ~~、こんなことを、しきりに言っていました。

要するに、母親が、子育てのみで、人生を送ってしまい、子どもが巣立ってしまうと、その虚脱感というか、何をしていいのかわからなくなる・・・生きている意味すら見失う・・・みたいな状態のことだそうです。

だから、子どもが生まれても、子育てのみにならず、常に、「自分」の人生のことも、自分の生きがいのことも、忘れずにいること、子離れしても、自分の生きがいをきちんと持っていること・・・なんて理論がはやりだしたんですよね。

今では、子どもが生まれても、そのまま仕事を続ける人も珍しくなく、中断しても、仕事や、趣味その他、お母さんたちが、「自分」の時間を持つことは、もう、当たり前になってきていますけどね。

そのすべてをいっしょくたにして、すべて否定するわけではありませんが、そうした「育てられ方」が違ってきているんだから、当然、子どもだって、違ってくると思います。

子育て中の、「自分」の時間、その両立を、わきまえて上手にしている人もたくさんいるけれど、中には、それはただの「逃げ」じゃないかなって、そのしわよせが、明らかに、子どもにきてるよって、人もいるなあって、思います。

自分は、どうだったか。

私の母は、いち早く、新しい理論を取り入れる、そんな母親だったくせに・・・そう、子どもの頃、私も、週に8個の習い事をしていましたが、母も、8個くらい習い事をしてました!!・・・・。

そうです、「自分」の生きがいだって、もってなきゃねって言ってた、母親だったくせに、いざ、私に子どもが生まれたら、ごく近所に住んでいたにも関わらず、「私の依頼」で子どもを預かってくれることは、ほとんどなく、自分が預かりたいときだけしかみてくれませんでした。

もちろん、保育所にいれるなんて、猛反対。

例に漏れず、だんなは、360日出勤の人だから、まったくあてにならずに、悶々としていても、

「みんな、そうやって、子育てしてきている」

「だんなさんが、遠洋漁業に出ている人は、どうすんのよ。まぐろをとりにいって、数年、帰ってこないのよ。それと同じと思いなさい」と、言われました。

妙に、納得したんですけどね。

そして、私の時間、私の生きがいって、言っても、強く否定されました。

「子育て、ほんの、10数年の間、なりふりかまわず、悩みぬいて、育ててみなさい。片手間でできることじゃないんだから。

なによりも、他に代え難い、この「仕事」を、のめりこんで、やってみなさい。そうでなきゃ、あなた自身が、いつまでも、大人になれない。」って言われたんですね。

「空の巣症候群・・・なってみたら、いいじゃないの。そこから、また、何かをみつけなさい」って、言われたんです。

そうなのかもしれないなあって、そのときは思って、私は、覚悟を決めましたね。

子どもは、正直、予定外の出産だったから、「仕事」も、これから、せっかく・・・て時に、辞めるって決断し、興味のあまりなかった、「子育て」について、一生懸命、考えました。

そうですね、私は、子どもって、まったく興味がなかったんです。好きでもなかった。

だから、自分らしいかどうかなんて、かなり、(これでも、)横においてきた部分があります。

興味もなく、好きでもなかった・・・子どもを見てると、自然に何かの気持ちがわいてくるってことは、なかったので、だから、むしろ、一生懸命になれたのかなって、思います。

常に、意識してないと、モチベーションが保てなかったかなあ。

自然にしてても、好きとか情とかわかないから、一生懸命、理屈で考えて、自分を納得させてきたかなあ。

ご周知のとおり、そのとき選んだ、その道で、ほどなく、「読み聞かせ」に出会い、ここまでこれたことは、本当に、よかった、って、今でも思っています。この道は、これで、本当に、よかった。

子どもにとって、だけではなく、子どもに興味の無い「私」にも、多大な恩恵がありました。

他には、代えられない、たくさんのことを得たと思ってます。

もう一度、あの、分岐点にもどったとしても、「読み聞かせ」と、本から学ぶという道は、迷わず、選ぶと思います。

ただ、予定通り?!、しっかり、「空の巣症候群」のような兆候に襲われています。

もちろん、トムくんは、まだ、10才。シャーリーだって、そういう意味じゃ、やっと高校生。まだまだ、巣立ちには、ほど遠いのですが、自分の年齢も感じる年となり、最近は、まだ早いよ、まだ、巣立ってないよっ、まだまだ、やることあるよって、思うのですが、虚無感にど~っぷり襲われることが多くなりました。

先日の課題、「愛」って何?・・・だんなも、子どもも、家族も、何だろうって答えが、自分の中にないってことに気づいてしまってからですね。一体、私は、今まで、何をしてきたんだろうかって、ものすごく、落ち込みます。

先日、ちょっと、書きましたが、その手の本を、数冊、読みました。

愛って、なぜ、必要なんでしょうか。愛って、認めてもらうことです。

愛してるよ、好きだよって、何で、言わなきゃならないか。それは、あなたを認めているよってメッセージだからだそうです。

おはよう、おやすみ、お帰り、・・・ありがとう、ごめんなさい、悪かったね・・・そんな「一言」も、なぜ、言わなければいけないか、それもみんな、「あなたを認めているよ」ってメッセージだからだそうです。

言わなくても、わかっているって、特に、日本の男性諸氏は言い訳しますが、その一言は、内容を伝えるためではなく、その行動自体が必要だからなんです。

認めるという行動は、保存がきかないそうです。

人は、日々、変わっているし、日々、違うことを考えたり、行動したりしていて、だから、そのつど、「認めてもらえた」という実感がないと、積み重ねていけないそうです。だから、いつも言わないとだめなんです。

欧米人のように、「愛してる」って、毎日いわなくても、それは、おはよう、とか、ありがとうとか、ごめんとか、今日も、元気?とかそんな言葉でも充分なわけです。

ありがとうも、ごめんなさいも、悪かったも・・・そして、好きだよ、愛してるも、確かに、内容は、わかってます。

子どもが、何かを失敗して、「悪かった」と思っているから、泣いている、気まずそうにしている・・・。

もちろん、「ああ、悪かったって、思っているんだなあ」って、わかりますよ。

わかるから、そのとき、こちらは、子どもの失敗を、受け入れて、許して、後始末をしてあげようって、心が動いているわけで、

「ごめんなさい」「悪かったです」っていう言葉は、受け入れた「私」への「愛」であり、私を認めてくれることになるわけです。

相互のやりとりなわけです。

わかっているからいいよ。言葉は省いてもって、いうことが重なると、やっぱり、自分は、認めてもらうというチャンスから、どんどん、遠ざかる。

一回一回は、たいしたことではないんだけど、これが、10年以上もたまると・・・もう、自分でも、何がこんなに巣くっているんだろうかって、わからなくなるくらいですね。

子どもが、特に、何か、悪いことをしてしまったとき、「ごめんなさい」ってちゃんと言ってほしい。

それは、悪いことへの償いの言葉としてではなく、こういう事件が起きたときこそ、人と人として、心を通わせたいからです。

大事な人、長い年月、一緒に、育ち合いたい相手だからこそ、そう思うわけですよね。

見知らぬ他人と、道で、肩がぶつかって、あやまりもしないで、行っちゃっても、一瞬、むっとしますが、いつまでも、悶々としたりしません。それは、一瞬むっとしたのは、ただ、肩がぶつかって、不快だっただけのことだからです。

誰もいないところまで行って、「ちっ!」って舌打ちすれば、すんじゃうことだからです。

でも、子どもが、「ごめんなさい」って一言を言わないと、妙に、納得できなくて、追い詰めてしまいませんか?

それは、そんなときでも、悪いことが起きたときでも、大事な相手とは、心を心が触れ合うチャンスだから、期待してしまうんです。

子どものしたことですから、基本的には、許そうって、譲歩の気持ちが、こちらには、わいてる。でも、子どもの方から、「私」を認めてくれる、言動がない。

ここが、「納得「」できなくなる、ところだと思います。

子どもならね、小さいうちは、まだ、ムリかなって、思える。でも、10才を超えてきたら、やっぱり、期待してしまうんですね。

期待があるから、裏切られた感もわいてしまう・・・。

そして、振り向けば・・・だんなという、大人は、どうよって、思ってしまうわけで・・・。

先日、シャーリーは卒業式のあと、誰に言われたわけでもないけど、ちゃんと祖父母には、「ここまで、ありがとうございました」って、卒業証書を持って、挨拶に行ったらしい。

自分の娘ながら、えらいな、わかってるなって、思い半分、学校の指導のありがたさ、半分・・・当の、私には、何もないんだ~~って、また、落ち込みでした。汗

まあ、古今東西、「母親」なんて、そんな損な存在ですかね。

当の、私だって、母親には、親不孝したと思ってます。ありがとうなんて、言ってないかも。

だから、この「空の巣症候群」の兆候・・・には、やはり、ひとりで、解決するしかなく・・・。

何も、やることがなくなる・・・生きがいが見つけられない・・・て、他人事として聞いていたときは、「見つければいいんじゃん」って簡単に考えていたのですが、この「虚無感」の恐ろしさは、外に、何かを見つけられるか、見つけられないかではなく、たとえ、見つけたとしても、果てしなく、わいてくる、自責の念と、自己否定・・・これが、つらいかな。

こんなステージは、まったく通り過ぎずに、いく人もいるのかな。

でも、訪れるとしても、何も、準備も予防もできないです。「今」を精一杯、生きるしか、ないんだよね。

トンネルぬけたよ~~って、いつか、書きたいな。

すっかりご無沙汰。

すっかり、自信をなくしています。なくしています・・・というより、根本から考え直しています。

子どもに、愛について、なんてちゃんと話そうと思って、伝えなきゃって、思って、考えていたら、自分が深みにはまっているかんじです。


愛ってなんだろう・・・。

だいたい、夫婦て何?子どもって何?家族って何?

今、自分の中に、何も答がないです。


一人でいられる強さ・・・なんて、だいぶ、力説した時期もありましたが、「一人でいられる」って、つかんでみたら、それはそれで、失ったものも、たくさんある気がしています。

いや、当時、どうでもよいと思った人間関係・・・それは今でも、未練はないですが、「自分」の中に、何かの力が育ったことも事実ですが、自分の中の、何かを、失ってきたような気もしています。

それはなんだろう・・・。


なんでも、表裏一体。

つまり、そういうことなんでしょうけど、その「表」と「裏」の妙に・・・はまりこんでいます。



話は変わりますが、トムくんが、最近、新書などを読んでいます。

本人流にいえば、「僕、説明文は読みたいんだよね」とのこと。うちにあった、「時間はどこからくる?」とか、動物学の本とか・・・。

そして、「ほるぷの本って、説明文、少ないよね。心のことばっかり」と、のたまっていました。

私も、正直、一理あるなと、昔から思っていました。


離れてみて、いろいろ客観的にわかりますね。

哲学者は究極、科学にたどりつき、科学者は、究極、宗教にたどりつく。

いわゆる、理系と文系といいますが、このふたつは、両端なのではなく、つきつめると、同じところに帰着していると思うのです。


心のこと、気持ちとか、感情とか・・・ものすごく、理論的でなければ、理解できない部分もあると思います。


「愛」なんて、公式で、解けるわけがない・・・と思うかもしれませんが、意外とそうでもなかったりする。

あまりにも、抽象的過ぎて、へとへとになったので、今、ちょいと面白い本に手を出してます。

いずれ、自分の覚書のために、ここへも、いくつか抜書きしたいと思います。


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