1,敬神知事・君島清吉

 

昭和天皇の群馬行幸は終わりました。

しかし、その混乱は様々な形で残りました。行幸直前の昭和9年10月、総裁には徳川家達公爵、会長には金澤正雄群馬県知事を据えた新田義貞顕彰組織「新田公会」が立ち上がりました。しかし、「今は行幸に全力を尽くす」という方針のため、その活動は延期されていました。

 

 

しかし、誤導事件により金沢群馬県知事は辞任。5年の任期で義貞顕彰を勧めたこともあり、かなり惜しまれたようですが「同情は同情、責任は責任」というのが世論だったようです。この時、同時に県の要職者が退任したり、移動になったりしています。

後任の知事は君島清吉が就任しました。栃木県出身で宮崎県知事からの転任でした。君島知事は「敬神知事」と呼ばれたほど「敬神主義」を県政の中心に据えます。着任早々に、前橋の総社神社と、前橋東照宮を参拝している敬神ぶりです。

 

 

そのため、顕彰の中心に据えたのは義貞ではなく、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)でした。垂神天皇の皇子で東国統治に当たった人物です。毛野氏など東国豪族の祖とも言われています。

1951年が豊城入彦命の「東国入国」から二千年に当たっていました。君島知事は県社赤城神社(上野二宮 祭神・豊城入彦命)の官国弊社昇格を計画します。この時点では15年先の話なのですが……

 

 

これについては君島知事は栃木県出身。つまり、足利尊氏と同郷です。なので、義貞を持ち上がれば尊氏を批判しなければいけない。それを避けたかったのではないか……と言われています。また、昭和10年は群馬県に大型台風が直撃し、死者218人、浸水家屋1万7千戸の大災害が出ました。この対応のため、新田公会に手が回らなかったと見られます。

 

 

「新田公会を綺麗に遣り上げた後に、徐ろに赤城神社昇格に要する資金募集に着手しても、決して遅くは無いと」

との意見も出ますが、君島知事が在任中に新田公会に手を付けることはありませんでした。

 

君島清吉

 

 

赤城神社

 

 

 

2,新田公会の挫折

 

昭和天皇誤導事件により知事の交替……それが義貞顕彰を大きく変えました。

地元新聞も雑誌も、昭和10年になると「新田義貞」についての記事に目に見えて減って行きます。新田公会の旗振り役だった豊国覚堂「君島知事を動かす」としばらく活動しますが、やがて運動を止めたようです。

 

 

その後、君島知事は貫前神社(上野一宮)で「東日本御經始聖業奉賛大祭」 を開催するものの、赤城神社の昇格は実現出来ずに昭和16年に退任します。直後、新田公会再興の動きが出ます。豊国覚堂の呼びかけにより、昭和9年時点の計画を実行しようとしますが、直前に総裁に予定されていた徳川家達公爵が死去。同じ年に太平洋戦争がはじまります。新田公会はついに活動することはありませんでした。

 

 

これとは別に、昭和9年12月の新聞で「生品神社に義貞を祭神として合祀する申請の却下」という記事がありました。申請経緯までは分からなかったのですが、これも誤導事件の影響なのか。

もし実現していたなら、生品神社の祭神が義貞になっていたことになります。

 

 

こうして、新田公会は終わりを告げました。

このコラムはもうちょっとだけ続きます。多分、ドラゴンボール程には続かないとは思いますが。

 

 

 

なので、続きます。