1,新田義貞公挙兵六百年祭

 

さて、コラムでございます。今年最後のコラムは。

ここで時代を確認しましょう。昭和6年(1931)に満州事変が勃発、時代にキナ臭い匂いが流れ始ます。明治は遠くなりにけり、大正浪漫も過去となり、昭和モダンの残滓も消え……

 

 

そして昭和8年を迎えます。西暦では1333年……つまり、鎌倉幕府の滅亡と、建武の新政から600年の記念の年となります。当時の言い方なら建武の中興です。

この年から翌年にかけて楠木正成、正行、北畠親房、顕家、名和長年、などがそれぞれの地元、祭神となった神社にて祭礼が行われました。

 

 

群馬は当然、新田義貞となります。この時期、井上馨武子も故人です。新田忠純も昭和6年に亡くなりました。そのため、祭典を主導したのは華族ではなく尾島街出身の中島知久平でした。海軍出身で、中島飛行機の社長として日本の航空界を牽引していました。現在のスバルの生みの親です。余談ですが、スバル車の前には今でも翼がついています。いつの日か、また空を飛ぶためだそうです。

 

 

この「新田義貞公挙兵六百年祭」の主な計画としては、

 

生品神社と金龍寺に「新田公舉兵六百年記念碑」の建立、

新田義貞小冊子の作成配布、

記念歌「五月の空」作成、

児童劇の作成・上演、講演会

の開催などです。祭典には皇室から100円が下賜された。全国的なものとしては

 

東京中央放送局で「新田義貞公の夕」として特別番組が放送、内容は「史劇 新田義貞公(児童劇)」、「講演 新田義貞公の遺烈を憶ふ(東京帝国大学 中村孝也)」「琵琶曲 稲村ヶ崎(榎本芝水)」「放送舞臺劇 求女塚身替新田」が放送。なお、「求女塚身替新田」では義貞役を5代目市川染五郎(後の8代目松本幸四郎)が演じています。5代目染五郎は現在の松本白鸚さんのお父さんです。大河ドラマ「黄金の日日」で海賊役をやっているのをちょっとみたことあるような。

 

 

式典は義貞旗揚げ当日の5月8日。午前中は生品神社で、午後は金龍寺にて式典が行われました。出席者は北畠千畝男爵井上三郎公爵(井上馨の孫)、桂太郎公爵(桂太郎長男、新田忠純の孫)、毛利元昭公爵、中村孝也東京帝国大学教授、中島知久平、野間清治講談社社長の面々。テープカットは新田武子姫、当時4歳が務めました。この武子が誰なのか?というのを「猫絵の姫君コラム」で検証しました。はっきりと分からなかったのですが、どうやら新田義美男爵(忠純の子)の娘の汪子のようです。その後、改名したんですかね……。なお、父の義美男爵は遅刻でテープカットに間に合わなかったとか。

 

 

午後は金龍寺の記念碑が除幕。太田、新田のみならず群馬全県が大いに盛り上がり「新田公デー」となったと当時の報道にあります。まず、大成功に終わったようです。

 

 

上 生品神社の「新田義貞公挙兵六百年記念碑」

下 金龍時の「左中将新田公誠忠碑」

 

 

 

2,新田公会の創設

 

さて、「新田義貞公挙兵六百年祭」が成功すると、次なる計画が動き始めます。その旗振り役となったのが豊国覺堂(義孝)です。慶応元年生まれの曹洞宗の僧侶で郷土史家。大正3年に郷土雑誌『上毛及上毛人』を創刊すると、群馬の歴史上の人物にスポットライトを当て続けます。

 

 

彼が郷土第一の人物として取り上げたのが新田義貞でした。六百年祭でも雑誌に数々の論文を書いており、県庁を訪れて「新田義貞の顕彰組織」の重要性を説きます。この運動が実を結び昭和9年(1934)10月10日に「新田公会」が創設されました(『銅の軍神』の中では「義貞公会」としています)

 

 

総裁には徳川家達公爵を迎え、会長には金澤正雄群馬県知事、副会長には星子政雄群馬県学務部長。顧問として徳川頼貞侯爵、徳川義親侯爵、徳川圀順公爵、松平頼壽伯爵、松平直富伯爵、松平康昌侯爵の徳川・松平の一門。新田義美男爵も顧問となり、他の本県関係者としては秋元春朝子爵、鈴木貫太郎海軍大将など。他に中島知久平、野間清治、徳富蘇峰……錚々たる顔ぶれが揃いました。

内閣つくれそうな顔ぶれです。キックバックも不記載も必要ないでしょう、多分。

 

 

さてその目的は、

 

1、義貞公奉齋神社の奉賛事業

2、義貞公に関する事蹟の調査顕彰

3、義貞公に関する遺蹟の調査保存

4、義貞公に関する遺物の収集保存

5、義貞公に関する史料の収集保存

6、義貞公に関する史料の編纂刊行

7、帝都に義貞公の銅像建設

8、その他義貞公に関する記念祭典・講演会などの開催、戦没六百年祭の執行

 

 

と見事に新田義貞一色でした。『銅の軍神』の作中でも雨野彰子がちょっと引いていました。

しかし、その活動はひとまず延期されます。翌11月には県民の悲願である昭和天皇の群馬行幸が迫っていました。新田公会の本格活動は行幸後……となりました。

そして、運命の昭和9年11月を迎えます。

 

 

 

続きます。