1,武蔵野合戦

 

さて、コラムの続きです。

文和元年(1352)閏2月20日。鎌倉街道を南下した新田義興、義宗、脇屋義治率いる新田軍。集まったのは江田、大舘、堀口、岩松、藪塚、羽川、大井田、一井、篠塚、などの新田一族、宇都宮、天野、三浦など東国武士。総数は10万(『太平記』定番の誇張があると思いますが)

 

 

一方で、足利尊氏は鎌倉を発ち、武蔵府中へ入ります。こちらは、兵力は8万。これは直義との戦いにより、足利一門がまだ分裂状態にあったため。尊氏としてはピンチです。

 

 

両軍は小手指原で激突。新田軍の先鋒の義興がまず打ち掛かり、次いで義治、義宗も続きます。合戦は「太刀の鍔音、天に光り地に響く」という大乱戦に。

それを抜けたのは義宗でした。義宗は尊氏本陣に肉薄。尊氏はこれを支えられずに分倍河原(東京都府中市)まで後退して、さらに多摩川の対岸まで撤退。義宗もこれを追撃しようとしますが、すでに時刻は酉刻(午後6時)になり、川の浅瀬が見極められない暗さに。義宗は川を渡れずに、尊氏は難を逃れます。

 

 

尊氏はこのまま石浜(現在の東京都台東区)まで逃げました。この時、尊氏は自害を覚悟したとも言います。合戦は新田軍が勝利したものの、敵を正面から押し切った勝利。

そのため、足利軍は大軍のまま、石浜に撤退していました。もしもこの時、別動隊を組織して尊氏の退路を絶てれば、首が取れていたかも知れません。その判断が出来なかったのは、義興や義宗の若さか。

 

 

とにかく、新田軍は勝利します。ここで義興義治と、義宗は別行動に。義興は軍勢を率いて鎌倉を目指します。鎌倉は尊氏の次男・足利基氏(この時は13歳)が守っていましたが、兵はほとんど尊氏が連れています。基氏は一戦しただけで逃れ、義興は鎌倉を占領しました。義貞が鎌倉幕府を滅ぼしてから、19年ぶりに新田が鎌倉を占領したことになります。

 

 

一方で義宗は小手指原に戻りましたが、この地は防衛に向いていません。そこで、笛吹峠(嵐山町)で移動します。鎌倉街道で唯一の峠です。

尊氏は石浜で基氏と合流して、武蔵府中へ入ります。閏2月28日に笛吹峠の戦いが行われ、激戦の末に足利軍が勝利。義宗は越後、宗良親王は信濃にそれぞれ逃亡します。この合戦に加わっていた、北条時行は捕えられて斬首にされています。

ちなみに、笛吹峠とは宗良親王がこの峠で笛を吹いたことが地名の由来です。

 

 

鎌倉の義興、義治はこの事態に止む無く鎌倉から撤退します。新田軍の鎌倉占領はわずか16日。京都を占領した南朝軍も、近江で態勢を立て直した足利義詮に敗れ、吉野に逃れました。

南朝が放った一瞬の光芒。それは新田一族の最後の輝きでもありました。

 

 

2,義興、義宗の死

 

武蔵野合戦を最後に、関東は完全に室町幕府の支配下に置かれました。足利基氏が鎌倉公方となり、南朝方が組織的に軍勢を興すことは不可能となります。義興、義宗は「地下」に潜ることを余儀なくされます。

 

 

延文3年(1358)4月、足利尊氏は京都にて53年の生涯を閉じます。この時、混乱が起こると見た義興は、隠れていた越後から出ます。鎌倉公方の家臣である竹沢右京亮から、関東管領・畠山国清暗殺の企てを打ち明けられますが、これが実は畠山の罠でした。

誘い出された義興主従13人は矢口渡しで謀殺されました。享年は28歳。その地には現在は「新田大明神」があります。7歳で北畠顕家軍に加わり、後醍醐天皇から名を賜り、戦いの中の生涯でした。

 

 

応安元年(1368)に2代将軍義詮、鎌倉公方基氏が相次いで死去。この期に義宗、義治は挙兵しますが、すでに新田に大軍を組織する力はありませんでした。上野の沼田で合戦となりましたが敗北。義宗は沼田で死んだとも、越後で逃亡して亡くなったとも言われていますが、正確な没地は不明です。年齢は38歳。

義治は出羽に逃れた後、伊予に入ったとの説がありますが没年は不明。

 

 

ただ、義宗については「義宗は本気で足利と戦うつもりはなかった」との説もあります。つまり、形の上だけ足利と戦っており、裏では通じていた……と。確かに、義宗は挙兵に消極的、多摩川で尊氏を追わない、笛吹峠に撤退など、義興と比べて消極的な面はあります。

 

 

義宗の長男の新田貞方は七里ヶ浜で斬首となったとは前に書きました。次男の容辻丸岩松満国の養子となり、新田荘の主に。子孫は『猫絵の姫君』の岩松武子。つまり、裏で足利に従うことで、血脈を伝えることは黙認された……

それはすべて推測であるのですが。

 

 

こうして、新田一族の組織的抵抗は終わりました。しかし、「新田一族討伐」の命令は室町幕府が潰えるまで、解除されることはありませんでした。一族に平穏が訪れるのは、遠い未来のこととなるのです。

 

矢口渡しの新田大明神

 

 

沼田市うつぶしの森

義宗の戦死推定地でもあります。

 

 

 

続きます。