1,新田一族の流転

 

さて、コラムですが。

前回で新田義貞は死にましたが、その後の南朝について少し書きます。

まず、越前の新田について。義貞が死んだ時、嫡男の新田義顕は父に先んじて金ヶ崎城で死んでいます。次男の義興は9歳、三男の義宗は正確な生年は不明ですが、8歳前後と思われます。そのため、新田家の家督は一時的に義貞の弟の脇屋義助が代行する形となりました。

 

 

義助は兄の存命中は、武勇に秀でるばかりであまり目立ちませんでしたが、ここから武将としての真価を発揮。義貞の落とせなかった足羽七城を落とし、斯波高経を敗走させて越前を制圧します。

ただ、すでに情勢は越前を取っただけではどうにもならず、京都から土岐頼遠などの足利の大軍が押し寄せるとこれを支えられず、美濃へと逃れました。

美濃には新田一族の堀口貞満がいたとされます(所説あってこの時点で貞満は戦死していたとも)

こうして、越前の南朝勢力は消滅しました。以後、地下に潜んで散発的に決起こそすれ、斯波高経の勢力下におかれることになります。

 

 

義助は尾張、伊勢を経て吉野へ。すでに後醍醐天皇は没しており、後村上天皇に拝謁してこれまでの苦労を労われます。そして、刑部卿に任じられます。これは「富士川で負けて戻った平重盛に恩賞を与えるようなもの」と、あんまりな意見もあったようですが。阿野廉子楠木正行とも会ったんでしょうか……

 

 

その後、熊野水軍を率いて伊予に渡り、一時は南朝勢力の構築に成功しますが、康永元年(1342)に病で没しました。38歳と伝えられています。なお、『猫絵の姫君』に登場した大舘昇一郎の先祖である大舘氏明は共に四国に渡っています。また、『銅の軍神』に登場する篠塚志帆の先祖である、篠塚重広(伊賀守)も四国で戦うも敗れ、隠岐に落ちて病死したと伝説があります。

 

 

義助の死後、四国の南朝勢力は細川氏のよって滅ぼされました。細川氏はこれにより四国に地盤を得て、「管領細川家」の基盤を築きます。

 

 

2,南風競わず

 

 

話を少し戻して義貞の死の翌年。

すでに南朝は楠木正成、名和長年、新田義顕、北畠顕家、結城宗広を失っています。公家の元弘以前に日野資朝、日野俊基、北畠具行(親房は具行の従兄弟の子)が死に万里小路藤房は出奔。千種忠顕、一條行房(勾当内侍の兄)も戦死しました。

後醍醐天皇は50歳となり、北畠親房も47歳。対して義貞の子達もまだ幼い。楠木正行も15歳(所説あり)。

 

 

まさに「南風競わず」「南朝には子供と老人だけが残された」という状態でした。そして、後醍醐天皇にも人生の終わりが迫っていました。

暦応2年(1339年)8月15日、病の床にあった後醍醐は、

 

「朝敵をことごとく滅ぼして、四海を太平ならしめんと思ふばかりなり。朕すなはち早世の後は、第七の宮を天子の位に即けたてまつて、賢士、忠臣事を謀り、(新田)義貞、(脇屋)義助が忠孝を賞して、子孫不義の行ひなくは、股肱の臣として、天下を静むべし。これを思ふゆゑに玉骨はたとひ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」

 

と遺言を残して右手に剣を、左手に法華経を持ち、崩御しました。皇位には顕家が奥州から連れ帰り、死の前に吉野に送り届けた義良(のりよし)親王が継ぎました。後村上天皇です。

後醍醐が最後に名前を読んだのは義貞でした。「異形の天皇」と言われた後醍醐が最後に思っていたものは、さて……

 

 

皇位は後村上天皇が継ぎましたが、貞和2年(1348)の四条畷の戦いに敗れて楠木正行は戦死。高師直に吉野を焼かれて、更に奥地の賀名生へ逃れます。この時、阿野廉子や女官たちが逃げる途中で吉野川にかかる橋が落ちていました。進退窮まった一行ですが、篠塚伊賀守の娘である伊賀局が、大力で松や桜の巨木をへし折おって橋をつくり、廉子を背負って川を渡ったと伝わります。

 

 

観応2年(南朝年号 正平6年)の「正平の一統」によって一時的に京都、鎌倉を奪還するも、長くは続かず。後村上、長慶、後亀山と続いたあとの、明徳3年(1392)に「明徳の和約」が成立し、「三種の神器」を北朝の後小松天皇へと引き渡して都に戻りました。

時代は室町幕府三代将軍・足利義満の御代となっていました。

 

ただし、合一後も幕府による「新田一族追討令」は解除されませんでした。山野に溶け込み、地に潜んだ新田一族に安住の時代が訪れるのは、織田信長によって室町幕府が滅ぼされるまで待つことになります。

 

 

吉野 後醍醐天皇陵

後醍醐天皇の遺言により北(京都)の方を向いています。

 

如意輪寺(南朝の皇居とされた)

 

 

 

続きます。