銅の軍神コラム⑩「義貞の最期」 | 智本光隆ブログ

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最新作『銅の軍神ー天皇誤導事件と新田義貞像盗難の点と線ー』2023年11月2日発売!!

1,金ヶ崎落城

 

さて、9回目でございます。

新田義貞金ヶ崎城(福井県敦賀市)に入ると、恒良親王を新天皇として「白鹿」の元号を用いて「北陸朝廷」を構想した、という説があります。史料があまりにも少ないので、全貌は定かではありませんが……

 

 

そして、徴兵。

脇屋義助(義助は元越前守護)と義貞の嫡男・新田義顕が城を出ると、兵を集めに回ります。義助は杣山城(南越前町)の瓜生氏のところに赴いて、息子の脇屋義治を人質に差し出すことで懐柔に成功します。義顕は新田一族の多い越後に向かいます(義顕は越後守)。しかし、足利軍に道を塞がれているおり、断念して金ヶ崎へUターン。

 

ところが、すでに城は高師泰、斯波高経率いる大軍勢に囲まれており、どこにも入り込む余地はありません。

この時、義顕は足利軍の面前をたった十六騎で突っ切った「金ヶ崎十六騎駆け」があります。これにより、足利軍は敗走するのです、次回あたりに1回設けるので、ここではさらっと流して……。とにかく、義顕の活躍もあり、足利軍は敗走します。

 

 

この間、京都では一度は尊氏と和睦した後醍醐天皇が、楠木一族の手引きで脱出して吉野へ入ります。ここで後醍醐は「光明天皇に渡した神器は偽物」として、天皇は自分だと宣言します。ここから、吉野に後醍醐、京都に光明のふたりの天皇が立つ「南北朝時代」となるわけです。

いや……北陸の恒良の神器はどうなるのか?

 

 

そして年が明けて建武四年(1337)になると、京都から足利軍6万が押し寄せます。この時、義貞、義助は不在。徴兵のために城から出ていたとも、援軍を求めて夜陰に乗じて城を出たともいいます。新田軍の兵は4千。義顕は必死に戦いますが、『梅松論』で城の様子を、

 

「生きながら鬼類の身となりける後生」

 

という壮絶な状態となります。騎馬戦が最大の武器である新田軍がついに馬まで食べますが、劣勢は覆しようもない。

3月2日、城の新田軍は最後の攻撃に出ます。この辺りも次で……

 

 

その結果、義顕は恒良親王を城から逃がして自害。その兄の尊良親王も共に自害します。これによって金ヶ崎城は落城し、北陸朝廷は幻と消えました。ただ、義顕の尽力もむなしく、恒良親王が捕えられて京都に送られ、やがて足利直義のよって毒殺されています。14歳の幼さでした(一応、生き延びて北陸に隠れて宮方を指揮した説もあります)

 

 

金ヶ崎城を落とし、足利軍は京都へと引き上げます。城を落とされ、新天皇を奪われ、義顕を失い……しかし、新田義貞はまだ戦うことを止めませんでした。

 

 

上 金ヶ崎城跡

下 金ヶ崎城から敦賀湾を望む

 

 

2,義貞の死

 

建武4年の8月になり陸奥の北畠顕家が南進を開始します。途中で上野へ残っていた義貞の次男・新田徳寿丸(のちの義興)、そして北条高時の遺児・北条時行を味方に加えると鎌倉を占領。雪の箱根を越えて東海道を西へ。尾張から美濃へ入ると、青野原(関ヶ原)で高師泰、土岐頼遠ら足利軍を破ります。

 

 

ここで北畠軍は「謎の反転」を行います。京都に向かわずに伊勢へと進路をとります。勝ったが戦力を不足していていた、越前の義貞を頼ろうとしたが北条時行が反対した、伊勢にいた北畠親房を頼ろうとした……いろいろと説はあります。これが、宮方の運命を決定づけた「反転」となりました。顕家はその後、伊勢から大和を経て岩清水八幡宮に入るものの戦力を回復は出来ず。5月22日に摂津石津の戦いで敗れ、21歳の若さで戦死しました。

 

 

この時期、義貞は杣山城で戦力の回復に務めていました。そして越前守護の斯波高経の隙を突いてこれを破り、越前国府を占領します。高経は越前北部に逃走したのでこれを追撃。その途中で多くの兵が集まったので、高経を捨てて上洛するべきだとの進言もありましたが、義顕の仇を討つべき後を追います。

 

 

しかし、越前北部は「足羽七城」と呼ばれる黒丸城、藤島城、安居城、庄城など小さな城が乱立しており、城攻めには時間がかかります。この間に、やっと越後の新田一族が援軍に駆けつけて、新田軍は優位に立ちますが。

 

 

ここで先の北畠顕家の戦死の報せが届きます。後醍醐からは岩清水八幡宮に残った北畠軍の生き残りを救うべく親書(後醍醐直筆)が届き、義貞は義助と2万の兵を急いで上洛させます。結果は……これがとんでもない判断ミスとなります。

 

 

これにより、新田軍の兵力が一気に不足。ただでさえ長引いている足羽七城攻めがより長期化します。

建武5年(1338)閏7月2日。閏年のこの年は、長い夏でした。義貞は藤島城を攻めている味方を督戦するべく、たった50騎を率いて出撃します。その途中、燈明寺畷で300の敵軍と遭遇。射手もおらず、盾もない、そして足元は泥田で新田軍は一瞬で窮地に陥ります。郎党のひとりは、

 

「千鈞の弩は鼷鼠のために機を発せず」(立派な弓はネズミを撃つためにあるのではない)

と義貞だけでも逃がそうと進言しますが、

「士を失してひとり免るるは我意にあらず」(勇敢なる家臣の犠牲で生き残るつもりはない)

 

と強引に敵中を突破しようとしますが、馬を射られて落馬すると、起き上がったところに眉間に白羽の矢を受けます。義貞は今はこれまでと自分で自分の首をかき切ると、泥田の中に倒れました。

 

 

従四位下左近衛中将新田義貞はこうして越前の泥田の中で、その波乱に満ちた生涯を閉じました。年齢は諸説ありますが38歳が有力です。郎党達は全員がその場で自害して義貞に殉じました。足利軍の兵士が義貞の懐を探ると、後醍醐天皇の勅書が入っていたといいます。

 

義貞戦没地の「新田塚」

 

 

 

義貞は死にましたがこのコラムはまだ続きます。