銅の軍神コラム⑨「京都攻防の果て」 | 智本光隆ブログ

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1,京都攻防戦

 

さて、コラムは9回目。

兵庫で敗れた新田義貞は京都に戻り、後醍醐天皇は比叡山へと逃れました。それを追って足利尊氏は都へ。義貞は坂本(大津)へ本陣を置いて尊氏と対峙します。これは同じ年の1月の戦いと同じ構図です。

 

 

6月5日から足利軍により比叡山攻撃が開始されました。足利軍が東坂本に攻め寄せ、これを義貞が防ぐ。その隙に足利軍は比叡山を奇襲するも、延暦寺の僧兵が早鐘をかき鳴らしたので、新田軍が寺に駆けつけてこれを阻止。

戦いは2週間ほど続きますが、高師直の甥・師久が新田軍に捕えられ、足利軍は一時都に引き上げます。師久はその後に斬首……

 

 

こうして、しばらくは一進一退が続きますが、新田軍が徐々に不利になります。比叡山は天皇、公家、女官が数多く避難しており、実に「消費の多い籠城戦」でした。楠木正成は死に、北畠顕家も陸奥に戻ったばかりの状態で、援軍の見込みはありません。一方で、足利軍は西国や四国から、援軍を集められる状態。

これを打開するのは短期決戦、つまり「ただ一度の攻撃で敵の中枢に大打撃を与える」ことです。つまり、尊氏の首を取しかない……ということです。

 

 

6月30日未明、新田軍の全兵力が動きます。坂本から都の南北へ、楠木一族の生き残りも淀川の南へ向かいます。それに釣られて都の足利軍も四方に軍勢を差し向けます。そうして、手薄になった洛中へ義貞と名和長年が、錐のように進軍しました。目標は東寺の尊氏本陣です。

 

 

洛中へ入った義貞は大宮大路を南へ駆け下り、東寺の尊氏へ迫ります。洛中に残っていた仁木、今川、細川の足利一門を蹴散らすと、東寺から出撃した尊氏本軍と激突。尊氏は咄嗟に東寺に逃げ込み、東大門を固く閉ざします。『太平記』によるとこの直後、東大門前に義貞が馬にて駆けつけ、弓を手に叫びます。

 

 

「天下の乱やむ無くして、罪無き人民を安くせざる事年久し。これは国主両統の御争ひと人は申しながら、ただ義貞と尊氏卿との所にあり。わづかに一身の大功を立てんがため多くの人を苦しめんよりは、独身にして戦ひを決せんと思ふゆえに、義貞みづからこの軍門にまかり向つて候ふなり。それかならぬか、矢ひとつ受けて知りたまへ」

 

 

「戦で人民をこれ以上苦しめるのならば、ここで一騎打ちにてこの戦を終わらせようではないか」と、義貞は弓を引き絞ると、東寺へと一矢を射掛けます。尊氏はこれに怒って出ようとしますが、家臣の上杉重能に止められます。

 

 

そうこうする間に、足利軍は東寺の周辺に集まってきたので、義貞は止む無く退却します。この東寺の場面は大河ドラマ「太平記」でも描かれいまして、義貞と尊氏が実際に一騎打ちを演じています。なんでも、義貞役の根津甚八さんは肋骨が折れている状態で演じていたとか。ドラマでは、決着つかずでストップモーションとナレーションで終わっています。

 

 

結局、この日の合戦は新田軍の敗北に終わります。名和長年は討死。先に公家の千種忠顕も死んでおり、建武の新政を謳歌した「三木一草」はこれですべて世を去りました(楠木正成、名和長年、結城親光、千種忠顕)。

この日を境に新田軍は徐々に追い詰められます。京都周辺の要地を足利軍に奪われ、都に出兵することも間々ならない状態に。8月15日には尊氏は光厳上皇の弟・豊仁親王を光明天皇として即位させます。

 

 

上 東寺全景

下 東寺東大門

しかし、訪問すると工事中の比率の高さ……

 

 

2,後醍醐の裏切り

 

新田軍は打開策を見いだせないまま10月に。

そして10月9日、後醍醐天皇は尊氏と密かに和睦を成立させて、密かに比叡山から下山しようとします。これはまったく義貞に秘密裡に進められました。しかし、公家の洞院実世が密かに義貞に知らせます。最初、義貞はこれを信じませんでしたが、一族で新田一族屈指の猛将として知られる堀口貞満が御所に参内すると、まさに後醍醐の鳳輦が出発するところ。貞満は鳳輦に取り付き、「これまでこの戦で死んだ者は八千人を数える。しかし、官軍に利がないのか戦の進め方ばかりが悪いのではない、それは後醍醐の徳がないからである」「もしも尊氏と和睦して京都に戻るなら、新田一族すべての首を刎ねてから行け」と、涙を流して訴えました。

 

 

そこに義貞と脇屋義助が駆けつけますが、後醍醐を翻意させることは出来ず。代わりに皇太子の恒良親王の皇位を譲って新天皇として、越前に下っていずれ京都を奪還することを命じます。義貞はこれを受け入れて、日枝神社に源氏重代の「鬼切」の太刀を奉じると、越前へと向かいます。

 

 

ここで義貞はじめ新田一族は、後醍醐天皇から「捨てられた」ことになります。この時に恒良親王には「三種の神器」が与えられたとする見方もありますが、果たして

 

……

義貞は越前に向かい、途中の木の芽峠で大寒波により多くの将兵を失いますが何とか敦賀へ。金ヶ崎城へと入城します。

 

 

 

続きます。