銅の軍神ブログ⑧「新田足利の戦い」 | 智本光隆ブログ

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最新作『銅の軍神ー天皇誤導事件と新田義貞像盗難の点と線ー』2023年11月2日発売!!

1,尊氏と持明院統

 

さて、数日ぶりですが、

足利尊氏が九州へ逃げ、畿内一円はひとまず平穏となりました。後醍醐天皇は元号を「建武」から「延元」に変更。これは「武」は兵乱につながると、以前から反対が多かったものです。

しかし、延元元年(1336)3月2日、尊氏は九州へ上陸して、多々良浜で菊池氏の軍勢を撃破。これによって北九州は足利方が掌握します(多々良浜の戦い)

 

 

もうひとつ、尊氏はこの時点で「あるもの」を手に入れています。それは持明院統の光厳上皇「新田義貞討伐」の院宣です。

 

 

後嵯峨天皇の後、その子の後深草天皇と亀山天皇が皇統を争い、それがそれぞれ持明院統、大覚寺統です。後醍醐天皇は大覚寺統の4代目。所謂「両統迭立」で交互に天皇を出している状態が続いていました。

光厳天皇は後醍醐天皇が元弘の変の後、隠岐へ流されたときに鎌倉幕府によって擁立されました。なので、都に戻った後醍醐からは「即位していない」ものとされ、この時点では上皇待遇さえ与えられていない……

光厳にしても賭けに出たという感じだったのか、尊氏に院宣を与えて復権を狙います。ただ、室町時代になってから持明院統は足利家に軽視され続けるのですが(この辺り、まともに書くとこれだけで3回分くらいになる)

 

 

このあたりが、義貞と尊氏の最大の違いである「政治的駆け引き」が出来るかどうか?ということでもあります。また、そういう側近がいるかどうか、ということも。足利直義とか、高師直とかですね。

 

 

なので、スパッと進めます!

3月4日、義貞に「足利尊氏追討」の勅命が下りますが、2日前に多々良浜の合戦は終わっています。そして翌日、後醍醐は北畠顕家を陸奥に帰してしまっています。このあたり、誰のどんな判断だったのやら……

 

 

義貞は3月末には山陽道へ出ると播磨、美作、備前、備中の大半を制圧します。唯一、赤松円心の白旗城だけは残っていて、ここから救援の使者が九州の尊氏へ。尊氏は当初、再上洛は「秋の刈り入れ後でいいかな?」的に考えていましたが、繰り上げて上洛を決意。4月26日に尊氏が水軍、弟の直義が陸軍を率いて上洛を開始します。

 

 

一方で「時間切れ」となった義貞は、西日本の占領地を引き払って兵庫へ退却。ここで京都から楠木正成が合流して、尊氏を待ち構えることになります。

 

 

2,兵庫の戦い

 

さて、足利軍が兵庫沖に現れたのは5月25日。

兵数は水陸合わせて100万とも。まあ、これは『太平記』の誇張でしょうが10万前後か?一方で新田軍は5万。こちらは2万くらい?

つまり、差があり過ぎる状態です。しかも、新田軍は水軍がありません。この時点で実はまったく勝ち目はありません。

 

 

戦いは……足利軍が上洛を試みるも、脇屋義助にあっさり討ち取られます。ところが、足利軍の細川水軍が東へ移動したので、新田軍もこれを追って移動。その時、新田軍と楠木軍の間に強引に足利軍が強引に上陸。東へ移動した義貞に対して、正成は湊川へと追い詰めれて、奮戦の末に73人の一族郎党と自害しました。これが湊川の戦いです。

 

 

というあたりで、大体この戦いの解説は終わることが多いのですが(大河ドラマもそうでしたが)実はこれは前哨戦です。この時、義貞は西宮に上陸した細川水軍を追い払って生田の森にいました。義貞が兵を返し、尊氏も進めたので両軍は激突。南北朝時代最大の激戦となりました。それは、

 

「新田・足利の国の戦ひ今を限りとぞ見えたりける」

 

新田軍は奮戦しますが、兵力差はいかんとがしがたく。

夕刻には決着がつきました。義貞は味方を京都へ逃がし、自分が殿軍(しんがり)を務めますが、馬を射られて求塚(神戸市)で敵軍に包囲されます。「鬼切」「鬼丸」という源氏重代の太刀を両手に戦う間に、家来の小山田高家が駆けつけて義貞を逃がします。高家は以前に軍令違反で青田刈を行い、死罪のところを日頃の行いの立派さから義貞に命を救われていました(新田軍は青田刈、略奪は禁止)

 

 

高家は身替りとなり討死。義貞は辛うじて味方の中に駆け込み、新田軍は京都へ撤退します。

後醍醐天皇は比叡山に退避。

尊氏は5月29日に京都へと入り東寺を本陣とします。

 

 

上 揚洲周延「新田義貞決戦之図」

下 新田義貞グラビア

 

どちらも求塚の義貞を描いたもの。

江戸~昭和初期まで稲村ヶ崎と並び、新田義貞の名場面でした。

 

 

 

続きます。