銅の軍神ブログ⑦南北朝動乱の始まり | 智本光隆ブログ

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1,箱根・竹の下の戦い

 

さて、前回ついに新田義貞に足利尊氏追討命令が下りました。

広義でいえば、ここからが「南北朝時代」になるのか?もっとも、「北朝」が世に出るのはもう少し先ですが。

 

 

ところで、これまで「義貞に尊氏追討が……」と書いていますが、これは厳密には少し違います。この時、尊氏追討軍は「上将軍 尊良親王(後醍醐天皇一の宮)」「大将軍 新田義貞」です。

後醍醐天皇の新政はあくまで皇族主義ですので、軍勢を組織するときもまず総大将格に親王を、それを補佐する位置に大将(この場合は義貞)を置きます。この「親王軍団」が新田と、そして宮方(南朝)のウィークポイントになるわけですが。

 

 

とにかく、建武2年(1335)11月19日に京都を出発した義貞は、まず軍勢をふたつに分けます。主力は義貞が率いて東海道を、もう一軍は一族の江田行義などを大将に東山道(中山道)を。そして、更に陸奥からは、北畠顕家が鎌倉の背後を突く手筈となりますが……

 

 

この時、尊氏は鎌倉で屋敷の一室に閉じこもり、髷を落として謹慎してしまいました。尊氏の胸の内は……よく分かりません。演技なのか、それとも本心では後醍醐と敵対したくなかったのか、或いは義貞と敵対したくなかったのか。

とにかく、尊氏なき足利軍は義貞の敵ではなく、新田軍は矢矧川、手越河原で連勝します。足利軍の総大将は直義……まあ、勝率は一割台のお方。

 

 

新田軍は12月9日に三島まで到達。

箱根に退いた足利直義と対峙します。ここで新田軍は軍勢をふたつに。主力は義貞が率いて箱根へ。そしてもうひとつは、脇屋義助を大将に箱根を北に迂回する竹の下へ。脇屋軍には尊良親王、そして親王に従う二条為冬など公家が加わっていました。この軍勢分割が新田の、南北朝時代の行く末を決めるとは、この時は誰も気が付いていなかったでしょう。

 

 

12月11日の箱根・竹之下の戦いは箱根で義貞が直義相手に有利に進めるものの、竹之下の義助は、鎌倉から密かに出陣した尊氏に敗れます。これは尊良親王擁する二条為冬が先陣を務め、その軍勢があっさり敗走したこと。そして、佐々木道誉などが一斉に寝返ったことにより、竹の下の新田軍は総崩れとなりました。これにより、箱根の義貞も撤退を余儀なくされました。尊良の先鋒は為冬が義助に強要した可能性もあります。為冬は戦死、尊良はかろうじて義助によって助け出されています。

 

 

これによって新田軍は東海道を敗走。途中、天龍川で義貞が敵に橋を残してやった……なんて逸話もあります。これは足利方からも新田義貞こそ「疑ひなき名将」と称えられています。義貞は墨俣で敵を防ごうとしましたが、ここで京都から撤退命令が届いたので、新田軍は京都まで退きました。

 

 

あと、箱根・竹の下の新田軍が日本史上で初めて「槍」を使いました。以上、余談で。

 

月岡芳年(「新田義貞 船田善昌」)

敗戦後、天龍川を渡河する義貞と、執事の船田善昌を描いたもの。

 

 

2,京都の攻防

 

新田軍を追って尊氏が京都へ迫ったのは年が変わった建武三年(1336)1月でした。3日から始まった京都攻防戦は、10日に京都の南の山崎で破られました。後醍醐天皇は比叡山へ動座して、都は灰燼に帰しました。

この戦いで活躍したのが義貞の嫡年・新田義顕で、洛南で敵を防いで後醍醐が退避する時間を稼いでいます。義顕は……この時は19歳くらいか?

 

さて、京都とは……攻めるに安く、守るに難しい守備側からすると「必敗の地」です。足利軍が京都に入ったことにより、比叡山の宮方対京都の足利軍という構図が出来上がりました。これは山地を抑えている宮方がある意味有利な状態です。ここにようやく、陸奥から北畠顕家率いる奥州軍が到着。さらに、先に東山道へ派遣した、江田行義率いる新田軍別動隊も戻ってきました。

 

 

宮方は1月27日、29日の二度の攻撃で京都を奪還。義貞は楠木正成、結城宗広、名和長年などと尊氏を追います。畿内で何度も戦いが繰り広げられますが、尊氏は2月11日に味方の大半を置き去りにして、九州へと落ちて行きました。

 

 

なお、27日の戦いの後で楠木正成が、義貞、正成、顕家など、宮方諸将の偽首を並べて、敵を油断させる、その名も「新田に似た(にた)首大作戦」を展開します。

新田義顕や北畠顕家など、若者の反応がどうだったか史料上では不明です。

 

 

義貞は凱旋将軍として都に戻り、正四位下左近衛中将となります。義貞の生涯でもっとも輝かしい瞬間だったでしょうが、この栄光が長く続かないことは多くの者が知っていたかも知れません。

 

 

 

続きます。