1,足利尊氏との「源氏連携」
さて、第2回でございます。
義貞は新田荘に密かに戻り、討幕の計画を練ります。この時点ですでに後醍醐天皇の綸旨か、護良親王の令旨のどちらか(あるいは両方)を手に入れています。『太平記』には吉野にいた時に部下に命じて、密かに令旨を手に入れている逸話もある。
智本光隆としましては「源氏の長者」(源氏の姓を名乗っている者の頂点)も務めた、北畠親房が仲介で、隠岐の後醍醐天皇から綸旨を手に入れたのではないかと思っているのですが。
この討幕で連携を取ったのが足利尊氏です。
『太平記』は新田氏を「源家嫡流の名家なり」として紹介し、義貞の挙兵を、
「いにしへより源平両家朝家に仕へて、平氏世を乱る時は源家これを鎮め、源氏上を侵す日は平家これを治む」
としています。所謂「源平交替論」ですね。
平清盛(平家)→源頼朝(源氏)→北条氏(平家)という。そうなると、次は源氏の世!新田氏と足利氏は同じ源義国を祖として、上野(群馬)と下野(栃木)に咲き別れた同じ一族です。ただし、新田氏は政義の大番役事件で失脚したのに対して、足利氏は執権北条氏と何度も婚姻関係を結び、外様御家人筆頭の地位を築いていました。
この時点で両家の当主……義貞は無位無官、尊氏は従五位下治部大輔と官位にも差がありました。領地も1万石対100万石……といった人がいたくらい、とにかく差がありました。
この両者はどこかで連携があったのか……義貞が新田荘に戻ったのと入れ違うように尊氏は後醍醐天皇の籠る伯耆の船上山を攻めるべく、幕府軍の主将として鎌倉から出発します。ところが4月末、丹波の篠村八幡宮にて反幕に転じると、六波羅探題に攻め込むます。これによって京都周辺の幕府軍は総崩れとなりました。
足利尊氏像
2,新田決起
さて、その頃の義貞ですが……
病と称して新田荘に戻ったあとは
「便宜の一族たちをひそかに集めて、謀叛の計略をぞ回らされける」
と、新田一族郎党と討幕の機会をうかがっていました。衰えたといえども源氏の名門ですので、一族は上野各地や、越後などに広く暮らしています。この一族と連絡を取るのに、関東の山に潜む修験道者のネットワークを活用した、と言います。『太平記』はこれを「天狗」が触れ回ったとしています。
その最中の5月上旬、新田荘に幕府徴税使の黒沼彦四郎が訪れます。新田荘の世良田は利根川水運の要衝で富家が多く、戦費の調達に訪れたものでしたが義貞はこれを斬ります。
これによって後に引けなくなった新田一族。さっそくに話し合いを持ちます。要害の地である上野北部の沼田に立て籠ろうとする案、越後の一族を頼って落ちようとする案などが出る中で義貞の4歳下の弟である脇屋義助が、
「運命を天にまかせて、ただ一騎なりとも国中へ討ち出でて、義兵を挙げたらんに、勢付きなばやがて鎌倉を攻め落とすべし。勢付かずんば、ただ鎌倉を枕にして、討死するより外の事やあるべき」
「運命を天に任せて出撃すべし!」との出撃論を展開します。これに一同は賛成してその日の夜、生品神社で一族郎党150騎を集めると後醍醐天皇の綸旨を読み上げ果敢に討って出ます。
おい、いいのか……と突っ込みたくなりますが、それが新田の戦の流儀なのか。
とにかく、義貞は一度新田荘から北に出て、上野国東部、北部の味方と合流すると、上野国府(群馬県前橋市)を占拠。寺尾城(高崎市)で里見の一族とも合流して、武蔵国へと進撃します。
とはいえ、この時点で味方は1千、2千、鎌倉幕府軍は6万、7万。
さあ、次回どうする?
生品神社
つづきます。