銅の軍神コラム①「北関東の勇将・新田義貞」 | 智本光隆ブログ

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最新作『銅の軍神ー天皇誤導事件と新田義貞像盗難の点と線ー』2023年11月2日発売!!

さて、『銅の軍神ー天皇誤導事件と新田義貞像盗難の点と線ー』の発売まで大体あと1週間。

なので、またコラムやります。基本的には『銅の軍神』の補足的な話しになります。

これを読むと『銅の軍神』がきっと99倍くらい楽しくなります。

読まなくとも、楽しいように執筆したつもりでありますので、ご安心ください。

まずは、基本も基本でこの方の話しから。

しばし、お付き合いのほどを。

 

 

1,落日の名門新田氏

 

実は義貞の話は『猫絵の姫君』の時は詳しくは書いておりません。

岩松武子の遠い先祖であり、今作も物語に大きく影響を与えている新田義貞。新田宗家第7代当主・新田朝氏の子で正安3年(1301)に生まれます(生年は諸説あります)

ちなみに、出生に関しては一族の里見家から養子に入ったという説もあります。岩松家は養子説を採っていたようですが……

 

 

さて、新田氏は初代義重の頃は北関東一円に勢力を伸ばした名門でした。義重は「源氏の古老」「武家の大老」と呼ばれた実力者でしたが、その死後に新田氏は徐々に力を失います。特に第4代の新田政義が京都大番役の最中に無断で出家する事件を起し、所領一部没収、惣領権の停止という処罰を受けます。

これは後々まで尾を引き、義貞の祖父・新田基氏の代に多少は勢力を回復したものの、新田氏は『吾妻鑑』にも登場しないような、貧乏御家人となってしまいます。

義貞がこの世に生を受け、そして父の病で家督を継いだのは文保2年(1318年)頃。義貞18歳の時でした。

 

群馬県太田市にある新田義貞生誕地の碑

 

 

2,義貞の青年期

 

さて、義貞ですが……

実は少年期、青年期における個人的な逸話はほとんど伝わっていません。古典『太平記』などから武芸に秀でた若者であったことは分かりますが。

ちなみに、「義貞」という名前ですが、これは足利尊氏の兄の高義か、もしくは一族の里見義胤が烏帽子親だったと考えられます(里見氏は義貞の生家でない系図では、母親の生家)。源氏は「義」がつくわけですから、この名前を入れたことに新田氏の並々ならぬ決意が感じられます。

……まあ、この時期は無名過ぎて「貞義」と誤記されていますが。

 

 

逸話は乏しいですが、嘉暦2年(1327)の陸奥安藤氏の乱に小田氏、宇都宮氏と共に出兵した……という創作は多いです。これは新田次郎先生が『新田義貞』で初めて書き、大河ドラマ『太平記』でも採られました。フィクションではあるのですがこの乱の後に小田氏の娘が義貞に輿入れする、後の戦いで陸奥の豪族が義貞の配下になる‥‥…などがあるので、ない話でもないかと思います。

ただ、新田氏の勢力回復は進まず、大番役のために新田荘の土地を切り売りしている状態でした。

他に逸話って何かあったかな。

藪塚温泉に浸かっていたくらいか……

 

 

そして元弘元年(1331)に後醍醐天皇が討幕の激を飛ばした「元弘の変」が勃発。

討幕の企てが露見して後醍醐天皇は笠置へ脱出。

そして、楠木正成は千早城で挙兵。

この時、義貞は大番役のために京都にいましたが、まずは護良親王の守る吉野へ六波羅探題軍の一員として派遣されます。そして吉野が陥落すると、次は楠木正成の籠る千早城へ。

この千早城攻めの陣中から義貞は病と偽って新田荘へ帰国します。

義貞と新田氏の、そして歴史が大きく動き始めます。

 

 

吉野 如意輪寺

 

 

初回はこのあたりで。

続きます。

 

 

 

智本光隆