猫絵の姫君コラム⑧謎の岩松水軍 | 智本光隆ブログ

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終わった?と思われている方も多いと思いますが、久々のコラムです。今回は「謎の岩松水軍」です。

 

 

岩松水軍・・・といっても武子の時代ではなく、南北朝時代のことです。

「岩松家は群馬だろう?海ないじゃん」とお思いの方、大洗でも新潟でも湘南でもそこが群馬の海と思えば群馬の海・・・というお話でもありません。

 

 

1,創作の岩松水軍

 

吉川英治の『私本太平記』には岩松家が率いる強力な水軍衆「岩松水軍」が登場しています。岩松家は阿波に所領をもっており、当初は岩松経家も阿波住まいです。ここに経家の弟の岩松吉致が登場します。この吉致、岩松水軍を率いて隠岐の島に向かって後醍醐天皇を救出して船上山に送り、畿内に戻って楠木正成の千早城、大塔宮の吉野、そして京都に忍び込んで敵の内情を調べ、関東に向かって鎌倉にも潜入。その情報を持って挙兵した義貞と合流します。

・・・すごい活躍です。映画になりそうだな、吉致。

 

 

そしてこの吉致、鎌倉攻め以降は物語にさっぱり登場しなくなります。そうか、これほどの男をどこかで失ったことは新田にとって致命的だったか。

なお、経家に吉致という弟は確認出来ていません、念のため。

 

 

2,岩松水軍は実在したか?

 

実際のところ、岩松水軍は実在したのか?

まず、岩松家は阿波邦生夷荘(いくいなのしょう)の地頭職になっています。現在の徳島県勝浦郡勝浦町です。これは確実なのですが・・・

 

 

この時期が所説あり。まず、埼玉県深谷市の荒澤山寿楽院は岩松氏が室町時代に開いた寺ですが、寺伝では足利義純(岩松初代・時兼の父)が遠江守に任じられ、水軍を組織して西国に進出してとしています。

他に岩松時兼が承久3年(1221)に地頭職に任じられた、阿波に赴いて岩松城を築いた。

岩松政家の代になり阿波へ移り住んだ・・・などあります。政家は鎌倉攻めの副将だった岩松経家の父です。

 

 

先の寿楽院の寺伝では経家は鎌倉攻めで阿波水軍を率い参陣。義貞の稲村ヶ崎突入では水軍で北条水軍を引き付けています。この間に義貞は鎌倉へ突入。

ただし、古典『太平記』などに岩松水軍は見られませんし、歴代の岩松家当主が阿波へ移住した事実は確認出来ません。経家は稲村ケ崎突入前日までは極楽寺坂で指揮を執っていて、新田氏義と交替しています。

この交替も謎なので、水軍の指揮を執るためとも解釈出来ますが・・・

現実的に阿波の水軍が隠岐や鎌倉まで移動するのは無理と思われます。日本の水軍は長距離移動に限界があるので。

吉川栄治先生がどうして岩松家を水軍大名にしたのかは謎ですね・・・

 

 

ひとつだけあるとすると、岩松経家は建武政権で兵部大輔になっていますが、この任官が新田義貞よりも、足利尊氏よりも早いということです。これは何かの手柄が特別にあり、後醍醐天皇に直接関わることだった・・・と見ることも出来るのですが。

 

 

3,水軍の系譜

 

室町時代に生夷荘は細川家に与えられ、岩松家と阿波との関わりは途切れます。

ただ、阿波はその後の水軍が盛んに活動します。水軍衆の頭目は森家が務め、細川家の下では細川水軍として活躍。戦国時代を経て蜂須賀家の参加となり、朝鮮出兵や大坂の陣にも参陣しています。

戊辰戦争では新政府軍に組み入れられて、そのまま維新を迎えています。

華々しい活躍を遂げた水軍の築いたのが岩松家なのかどうかは、今のところが不明のままです。

 

 

武子は明治になり海を越えてアメリカ、ヨーロッパに渡りますが、水軍衆の遺伝子がどこかにあったのかも知れません。軍艦でフランス人大尉に拳銃突き付けたかどうかは別にしても。

 

 

馨 「武子さん、海賊の子孫だったんですか。ブリュネ大尉は気の毒に」

武子「誰が海賊だ!別に海賊王とかなりたくない。ラフテルよりもフランスに行きたい」

馨 「あのシーンはもう終盤なので作者的に『やっちゃえやっち ゃえ』で描かれたらしいですよ。僕的にはただの迷惑です」

小栗「なお、群馬県人の世界一周第1号は私です」

武子「女性の第1号は私です。井上殿は長州の一人目なのか?」

馨 「知りませんね。寄港料をケチって上海から港に寄らないので、船酔いの大祭典です。思い出したくもない」

武子「高杉晋作殿は船酔いがひどくて上海で降りたとか?」

馨 「あの人は自由人なので」

 

 

なお、諸説あります(計器の計算が苦手だったとの説もあり)

 

 

 

智本光隆