猫絵の姫君人物帖 中井弘②「鹿鳴館の名付け親」 | 智本光隆ブログ

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1,大久保利通、伊藤博文の片腕に

 

さて、中井弘の後編です。

 

 

何度も書いている気がしてますが、本作『猫絵の姫君―戊辰太平記―』「岩松武子、中井弘の妻説」を使っていないので、

 

「明治2年、中井が薩摩に帰る時に武子を大隈重信邸に預け、その間に井上馨と恋仲になった」

 

という説もまったく採用されていません。

なので、大隈邸で馨、武子、中井の修羅場もありません。

 

なので、他に修羅場を用意したわけでもないですが、

5章の品川の場面で、武子の花嫁姿で中井の前に立たせる演出は入れました。すぐに、血まみれ武子になりましたが。

 

 

なお、この時期に大隈重信邸に井上馨、五代友厚、伊藤博文、そして中井などが集まっていたというのは事実で、「築地梁山泊」という名称も中井の命名という説があります。大河ドラマ「青天を衝け」では、ここに渋沢栄一が訪れました(中井は出ませんでしたが)

 

前に一度紹介した写真ですが、

後列右が中井弘

前列左から伊藤博文、大隈重信、井上馨

 

 

さて、その中井弘ですが、維新により外国事務係になります。この時期は大久保利通の片腕として働いていたはずですが、明治2年の6月になってこれを罷免されて薩摩に戻っています。作中では、箱館政府と通じたから・・・との理由ですが、実際のところは不明。

この帰国の間に、中井の父の休左衛門がやっと赦免されて戻ってきたので、ここで横山家は再興されました。もっとも、中井は生涯横山姓に戻すことはなかったようですが。

 

 

この後、中井は薩摩と東京を行き来するものの、約2年ほど政府と距離を置いていた様子。

維新前に、それなりに恨みも買うような行動もしていそうなので、しばらく薩摩に戻っていたということなのかも知れません。黒子役の人間故かも知れません。

 

 

明治5年に政府に戻ると、翌年の岩倉使節団には後から出発して途中で合流しています。一度、帰国した後に、今度は工部省設置の調査のためにイギリスへ留学。工部省は後の郵政省に相当する役所です。

帰国後は工部省に入省し、初代工部卿になった伊藤博文の腹心として働くことになります。

 

 

2,鹿鳴館の名付け親、そして地方行政に

 

さて、中井というとあとひとつ。

「鹿鳴館」の名付け親だということに触れないわけにも行かない。

 

 

鹿鳴館開館の時点で、外務卿の井上馨と、工部省の一役人の中井の間にはかなりの差がありますが、維新後に広く外国を見た中井は、井上の推し進めた不平等条約改正のために「鹿鳴館外交」を支持した有力な役人でした。鹿鳴とは『詩経』の一節から「鹿鳴いて賓客を迎する」の意です。

『猫絵の姫君』では、どんな流れで中井が名前を付けることになるのか・・・

 

 

この同じ年、娘の貞子が後の「平民宰相」原敬に嫁いでいます。貞子が武子と中井の子でないことは、武子のところで述べた通りですが(原と貞子は後に離婚)

 

 

この翌年から中井は地方へ。滋賀県知事となり、琵琶湖疎水を手掛けます。明治26年には今度は京都府知事を拝命して元老院議官、貴族院議員となりますが、在職中の明治27年に57歳で病没しました。

京都の丸山公園には昭和39年になって中井の子孫が建てた胸像があります。

 

 

なお、変人的な逸話のある人で滋賀県知事時代に明治天皇を琵琶湖を案内する際、ブランデーを飲んで酩酊状態で案内し、御休息所にお連れするところをトイレに連れていった、とか。

天皇の御前で葉巻を数本くすねた・・・などというエピソードもあります。

 

 

武子「まったく、血筋は争えんな」

馨 「武子さん、それは美濃川並衆の伯爵家の逸話ですよ」

 

 

ところで、作者はデビュー当時から「悪役を描くのが下手」と言われていました。そこで、今回は悪役ポジの中井を悪く描こう・・・と思っていたのですが、なんか小悪党みたいになってしまい、イマイチ凄みが出ませんでした。

更なる努力と研鑽の必要がありです!

 

 

 

 

智本光隆