猫絵の姫君人物帖 月岡芳年②「不遇時代を支えた妻の才知」 | 智本光隆ブログ

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1,月岡芳年の妻・おせん

 

さて、月岡芳年2回目ですが。

今回は芳年というよりも、妻の「おせん」について。

 

 

芳年は生涯で3人の妻がおります。

一人目は「おせん」

二人目は「お琴」

三人目は「坂巻泰」です。

なお、お琴とは正式には結婚していない様子。

所説があるので、この他にも芸者などを浮名を流していますが。モテたことは間違いないようです、芳年先生。

 

 

『猫絵の姫君―戊辰太平記―』に登場しているのは、一人目の妻のおせんです。

おせんは清元(清元節、浄瑠璃から出た三味線の一種)の師匠の娘で、芳年と幼馴染で一歳年上です(天保9年生まれ)

芳年は12歳で歌川国芳門下になりますが、その後も理由をつけて仕事場を抜け出し、おせんに逢いにいくのである日、師匠の国芳から、「春先の猫か、お前は!」と一喝され、とにかく一人前になるまで仕事に精進。

 

 

その後・・・芳年20歳、おせん21歳の時に晴れて師匠の仲人を結婚しています。安政4年(1858)頃になりますかね。

浮世絵師として独立したふたりには女の子が生まれます。ところがその子は慶応元年(1865)に僅か2歳で亡くなってしまいます

そして、慶応年間にプチブレイクを果たした芳年ですが、その後は明治維新による世相の変化と、本人の精神的疾患から画業が下り坂に。

 

 

2,不遇時代を支えた妻の才知

 

この時期の芳年を支えたのがおせんです。

ある時・・・芳年の知人が亡くなり葬式があったのですが、この時期には正装すらない有様でした。そこに、たまたま客が来たのでおせんは「湯でも如何です?」と湯屋(銭湯)を勧めます。この当時、銭湯は浴衣でいくのが普通。お客は銭湯に行き、戻ってきたら酒を出し、話相手をして、とにかく時間を稼ぎ・・・

その間に、芳年は葬式に行って帰ってきた・・・という逸話があります。

 

そんなおせんですが明治4年頃になると桶町の芳年の家から姿を消しました。

死んだのか、離縁したのか・・・知人が行方を聞こうとしたものの、絵を描く芳年の姿を見て聞くのを躊躇った、といいます。おそらく、死別したものではないかと思われます。

芳年33歳、おせんは34歳の別れでした。

 

 

芳年が再び世に評価されるのは明治7年頃からですので、おせんは夫が「最後の浮世絵師」として、明治の世で大家となるのを見ることなく世を去りました。

 

 

その後、芳年はお琴という女性を妻にしようとして、明治7年の『桜田門外於井伊大老襲撃』で成功を納めます。ただ、すぐに暮らしは良くならずお琴さんは房総の親元に戻り、そのまま病に。ブレイクを果たした芳年は盛んに金を送ったそうですが、遂に病は癒えずに亡くなります。

 

 

明治17年、すでに名声を不動のものとし、43歳になった芳年は一男二女のある坂巻泰をいう女性と結婚します。明治43年に世を去るまで芳年は泰と連れ添います。

なお、実子についてはおせんとの間に生まれた、慶応元年に死んだ娘の他に遂に授かることはありませんでした。現在、月岡芳年の子孫を名乗っているのは、泰の連れ子の系統の方になります。

 

『美術世界』に掲載された女性と猫の絵

芳年は猫が好きだったので、猫の絵が多い。

そういえば、この猫も白黒

 

 

芳年の女性がを「月百姿」より

上 安達泰盛の娘・千代能

下 新田義貞の家臣・篠塚伊賀守の娘の伊賀局

  伊賀局は楠木正成の子・正儀の妻でもあります

 

 

まだ、おせんがらみで続く予定だったのですが、

長いのでこの辺りで。

 

 

智本光隆