1,小栗家、権田村を脱出
主人公の武子でさえ3回でしたが、小栗は4回目(笑
小栗忠順編、今回は小栗の家族について少しだけ。
『猫絵の姫君―戊辰太平記―』では小栗の養女として、三枝綾子が登場していますが、彼女は幼少期から小栗家で育ちますが、正式に養女ではありません(小栗と綾子は従兄妹)
まず、小栗の妻の道子には長年子が出来ず。
そこで、まず小栗の母・邦子の実弟の日下数馬の娘・鉞子(よきこ)を養女に、旗本の駒井朝温の次男を養子とします。
養子入りに小栗家代々の「又一」を名乗り、諱は忠道とします。
忠道は英邁な若者で、小栗が開設したフランス語学校第一期生となり、通訳が務められる語学力がありました。
義父の小栗とともに権田村へ下がりますが、新政府軍からの詰問に義父にかわって塚本真彦ら家臣とともに高崎城に出向き、そこで捕えられて幽閉されます。
小栗が斬首となった3日後の閏4月7日に同じく斬首。
享年は21歳。
幕府と日本を支えたのであろう若者は、果たして義父の斬首を知っていたのかどうか・・・
これにより小栗家に残ったのは小栗の母の邦子、妻の道子、
そして鉞子の女たちばかり(綾子の所在は不明)。このとき、道子は懐妊しており妊娠八ヶ月の身重でした。
小栗一家は一度は権田村端の亀沢まで逃れますが、小栗ひとりが東善寺へ戻ります。詳細は不明ですが、
「新政府軍は村を焼き払い村人を皆殺しにする」
という情報を得た、
「高崎城へ出向いた忠道の身を案じた」
との説があります。
小栗の妻子には家臣、権田村の村民が護衛として20人同行して権田村から六合村、そして国境を越えて越後へ逃れます。一度は長岡へ逃れますが、新政府軍が近づくとの情報に、今度は会津目指して再び逃避行を重ね・・・
閏4月末日にようやく会津へたどり着きます。
そして6月10日、道子は女児を出産します。子供は小栗の生母と字違いの「国子」と名づけられました。
この間、小栗家の家臣は三国峠や、会津で新政府軍と戦い戦死しています。
会津藩の降伏後は仙台へ。
東京へ出て来たのは明治2年の春のことです。この時期、小栗の生母の邦子が病死したと言われています。
また、養女の鉞子は共に東京に出たあとの消息が不明です。
調べても分かりませんでした。誰がご存じの方は教えて下さい。
この少し後に、綾子が大隈重信の妻になっています。
2,明治の小栗家
ここで、小栗家に救いの手を差し伸べたのは、三井の三野村利左衛門です。野々村は庄内藩士の息子に生まれ、小栗への中間を経て三井入りしました。小栗が勘定奉行時代には幕府を小栗へのパイプ役を務めていた人物です。
この三野村の世話で道子と国子は徳川慶喜が移り住んだ駿河へ。ですが、ほどなく東京で戻って三野村の庇護を受けます。
小栗家はその後、明治19年に道子が病死。
残された国子を養女として世話をしたのは、大隈綾子、重信の夫妻でした。国子を養女として迎え、前島密の媒酌で元佐賀藩士・矢野貞雄を婿として迎えて小栗家を再興させます。
それ以降、又一(又一郎)を名乗って現在につながっています。ジャンプの「花咲か天使テンテンくん」の作者の小栗かずまた先生はその子孫だとか。
小栗を最後まで護衛した権田村の村民は小栗への行く末を見届けた後、権田村に帰りました。生き残り、村に帰りついた者達は「乞食同然の身形だった」と伝わります。
現在、小栗家の家臣たちは東善寺の小栗の墓所に、主君と共に眠っています。
明治の小栗家についてはまだありますが、それは次回からの綾子編で。
智本光隆