猫絵の姫君人物帖 小栗忠順②「幕末にひとり『明治』を見た男」 | 智本光隆ブログ

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1,対馬事件と小栗

 

 

さて、アメリカから帰国した小栗忠順ですが・・・

 

この前に前回飛ばしてしまった帰路について。

使節団は当初、また太平洋を渡っての帰国予定でしたが、

船の呼称などがあり大西洋ルートの帰国に。

1860年の旧暦9月27日に品川に到着しました。

 

 

この帰路、ポルトガル植民地のロアンダ(アンゴラ)で、

黒人奴隷が使役されている姿を目撃しています。

使節団の感想も「不潔だ」といものから、

「胸が痛む」と割れています。

小栗は何も思ったのか・・・

 

 

ちなみに、何故か今日では後発の咸臨丸の方が、

「日本人による太平洋横断」として有名ですね。

勝海舟の宣伝が上手かったのか?

なお、日本人による初の太平洋横断は小栗でも勝でもなく、

伊達政宗の家臣の支倉常長です(記録上)

 

 

帰国して外国奉行に任じられた小栗の初仕事が、

「対馬事件」です。

ロシア軍艦が対馬を武装占拠したこの事件で、

現地に急行した小栗は交渉に当たります。

ただ、ここで問題になったのが200年以上も続いた、

「幕藩制度」でした。

ロシア軍人のニコライ・ビリリョフは対馬藩主宗義和に、

対馬の芋崎の租借を求めますが、

これに小栗は「土地は幕府が対馬藩に貸しているもの」と、

交渉権を奪い取ります。

 

 

この事件はイギリスの介入

(ロシアが対馬に進出するのを警戒したと言われている)で、

ロシア側が対馬から去って決着します。

江戸に戻った小栗は、対馬藩の廃止と対馬を幕府の直轄地とすることを提案しますが、これは認められず・・・

結局、外国奉行を辞職します。そして次に勘定奉行に・・・

 

これ以降、小栗は就任→上役や慣習とぶつかる→辞職

(事実上の更迭)→別の役職で再任。

この流れを繰り返すことになります。

 

 

江戸の町人からは、

「またまた小栗様のお役替え」「70回目」

と言われたとか。

「またも辞めたか亭主殿」というドラマあったっけ・・・

「小栗がダメなら勝」「勝がダメなら小栗」というのもありましたね。

 

 

2,小栗の近代化政策

 

ただ、様々な役職を転々としながらも、

小栗は近代化政策を勧めます。

最たるものは横須賀製鉄所と、洋式軍隊なのは、

よく語られていますが他にも、

 

 

まず、「築地ホテル」の建設

アメリカでホテルを見て来た小栗は、

「民間でこれを行うものがあれば土地は幕府が提供する

としました。

これに清水組(清水建設)が慶応3年に築地で建設に着工。

もっとも、完成した時には幕府が潰れていたのですが

(ホテルは明治4年に焼失)

なお、これも日本初の水洗トイレが導入されました。

 

築地ホテル(築地ホテル館 - Wikipedia

 

 

そして、日本ではじめての「株式会社」建設に動きます。

アメリカでパナマ鉄道が株式会社であったことから、

その組織を理解した小栗は、

開港間もない兵庫に「兵庫商社」の設立を建言します。

この時の株主は鴻池屋や加島屋など・・・大坂の豪商です。

残念ながらこちらは創設半年後に大政奉還となり、

本格始動の前に解体してしまいました。

 

 

この他にガス灯、郵便、電信、鉄道・・・

これらはのちに井上馨、大隈重信、渋沢栄一たちの手によって、

実現されます。大隈いわく、

「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」、と。

 

 

小栗忠順像(東善寺)

 

 

しかし、慶応3年10月14日、大政奉還。

それは、小栗忠順に明治が訪れなかったことを意味しています。

 

 

なんか・・・小栗が一番長くなりそうな気がして来た(汗

つづきます。

 

 

 

智本光隆